(1)次の文によれば、女王国は最も南に位置している。
「女王国より以北、その戸数、道里は得て略載すべきも、・・・・・」
「女王国より以北には、特に一大率(すい)を置き、諸国を検察せしむ。・」
奴国(と不弥国)までは戸数・道里が判明している。
(2)後漢書によれば、奴国は倭国の中で最も南に位置している国である。
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
(『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」) 倭国の極南の界なり
しからば奴国が女王の都する所・邪馬台国なのか。
(3)帯方郡より女王国(邪馬台国)までは12,000里である。
「郡より女王国に至ること万二千余里。」、先の解析により直線的にたどっても、邪馬台国まで12,000里とはならない。奴国までは10,600里となり合わない。
(4)対海国(対馬)、一大国(壱岐)の島の周囲を巡る必要がある。
--→
↓ これが方四百里、方三百里なのであり、島の2辺の距離を移動
↓ する必要がある。
400×2=800、300×2=600、800+600=1,400里を追加する必要がある。すると
帯方郡→奴国まで10,600里に島の周囲の距離1,400里を足すと、12,000里となり、女王国にたどり着くことが出来る。奴国に女王は都していたのである。不弥国の謎は後で述べる。
(5)水行十日、陸行一月の意味は?
水行一日は120里、陸行一日は40里なので、
水行10日×120里=1,200里、陸行30日×40里=1,200里
「露布の原理」で10倍に誇大化して、夫々12,000里と表現したものである。
だから、
水行では十日程(12,000里)、陸行では一月ほど(12,000里)の距離に、邪馬台国はある、といった意味となる。単なる説明文なので、行程に含めて計算すべきではないものである。
これが「郡より女王国に至ること万二千余里。」「邪馬台国に至る。」で「女王の都する所」・奴国まで万二千余里なのである。
(6)「その國、本また男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐(こうばつ)すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。」
と言うことは、卑弥呼は連合国家の女王となったものであり、邪馬台国=奴国=連合国家 に都していたのである。便宜的に邪馬台国=奴国としているが、邪馬台国は連合国家だったのである。しかも30カ国ほどの。厳密には、奴国=邪馬台国ではない、邪馬台国は倭国30カ国ほどの連合国家の総称である。
(7)魏志倭人伝では7カ国の他に、20カ国の名前を羅列している。
「今、使訳通ずる所三十国。」と魏志倭人伝の冒頭にある様に、邪馬台国=倭国連合は、30カ国ほどの連合国家であった。七万余戸ばかり有り。
7カ国とは狗邪韓国から不弥国までの7カ国を言う。
女王国=奴国≠邪馬台国=三十カ国=女王の都する所、となるのである。
邪馬台国というのは一個の国ではなくて、三十カ国ほどの連合国家の総称であると考えるべきである。
(8)方角、距離、国名と方角、国名、距離の書き順の違い
魏使倭人伝を簡単に羅列するとこのようになる。
1. 南、東、その北岸・狗邪韓國到る、七千余里
2. 始めて一海、千余里、 対馬(海)國至る、
3. 又南一海、千余里、一大國至る
4. 又一海、千余里、末盧國至る
5. 東南陸行、五百里、伊都國到る
6. 東南、奴國至る、百里
7. 東行、不彌國至る、百里
8. 南、投馬國至る、水行二十日
9. 南、邪馬台國至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月
伊都国までは、方角、距離、国名という順序だが
奴国からは、方角、国名、距離という違う順序になっているので、何らかの意味があると考える必要がある。
結論から言ってしまえば、伊都国から放射状にたどるべきである。
(投馬国・邪馬台国は日数表示なので、考慮外)
伊都国→東行→不弥国に至る、百里
\東南
\奴国 至る、百里
しかも伊都国は「郡使往来して常に駐まる所なり。」なので、帯方郡の使いの目的地なのである。だから到着する所であり至るは使われていない。至るは通過するを意味するからである。
(続く)