纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(24)

となると、魏使は 

 

帯方郡-→狗邪韓国-(始めて一海)→対海国(対馬)-(南一海・瀚海=対馬

 

峡・東水道)→一大国壱岐-(一海)→末羅国(松浦川沿い)-(素通り→古代糸

 

島水道)→不弥国(主船司・上陸、周船寺)-↓ 

 

   (郡使往来常所駐、糸島市伊都国←(陸行)← 

 

                   \-→奴国(女王) 

                      高祖山                  

と言った行程で、魏使は伊都国まで来たものであろう。(太字は現在の地名) 

 

当時の糸島半島は陸続きではなくて、怡土郡志摩郡に分かれており、志摩郡は島であり、怡土と志摩の間には糸島水道と言う水路が博多湾まで続いていたものと思われる。その後河川の力などで埋め立てられてつながってしまったものである。そのため当時としては、水上交通が出来たものであった。 

 

不弥国で、魏使は上陸し文書賜遺の物倭国側にわたし、倭国側では、それらを「皆津に臨みて捜露(そうろ)」したものであろう。 

 

そして魏使たちを陸行で伊都国まで案内したものである。不弥国から伊都国までは、わずか4kmほどの距離であった。 

 

伊都国は「郡使の往来して常にと駐まる所」でありそこで役目を果たし、奴国へは(常には)行っていなかったものであろう。 

 

 

しかも狗邪韓国からこの伊都国までの距離が、「周旋五千余里」と言っているのである。 

 

これは魏志倭人伝の終わりの方にある文章で、次のものである。 

 

倭地を参問するに、絶へて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ、或いは連なり、周旋およそ五千余里なり 

 

7月12日記載の当ブログNO.7から、帯方郡からの距離の部分を引用すると次のようになる。 

 

だから帯方郡から奴国までの距離を計算すると、次のようになる。 

 

帯方郡→狗邪韓国 7000余理 

 

狗邪韓国→対海国 1000余理 

 

対海国→一大国  1000余理方400余理(対海国の二辺を回る) 

 

一大国→末盧国  1000余理方300里ばかり(一大国の二辺を回る) 

 

末盧国→伊都国   500余理・+不弥国から伊都国の100里 

 

伊都国→奴国     100余理 (伊都国から不弥国までも100余理) 

                 

合計        10,600里 + (800+600=1400里) 

 

郡より女王国に至るは、万二千余里なり。 12,000里 となる。  

 

 

この表に従い狗邪韓国から伊都国までの距離を、 

 

末羅国→不弥国→伊都国として計算すると、丁度5,000里となるのである。 

(上記の茶色の数字を合算すると、丁度5,000里となる。) 

 

狗邪韓国(今の釜山当たり)は当時は倭国の領土であったので、狗邪韓国から伊都国までの全体が倭国邪馬台国)の全領土であったわけで、 

 

倭地を参問するに、絶へて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ、或いは連なり、周旋およそ五千余里なり 

 

と言う表現が将に当時の倭地の全体であり、このように魏使は表現したものである。まことに正確な表現であったと推測されるものである。 

(続く)