究極の悪、石破茂(1)

石破茂の悪さ加減は、小生のブログ「加計問題を紐解いてみれば!(48・総選挙)」(2017.10.08~

にしっかり書いてあるから、それを読んで頂きたいのであるが、特に2017.10.12NO.5以降を参照願いたい。

 

現在は国民民主党代表の玉木雄一郎とともに、当時、石破茂日本獣医師会から100万円の政治献金を受けて獣医学部新設に反対して、岩盤規制に風穴を開けるべく安倍首相の進める「国家戦略特区法」を骨抜きにする「石破4条件」を潜り込ませて、獣医学部の新設を加計学園岡山理科大学今治キャンパスの一校のみに抑え込んでしまったものであった。安倍総理の部下である地方創生担当大臣の立場でありながらである。

 

 

その石破茂が、2018920日投開票の自民党総裁に立候補している。

 

そしてそのキャッチフレーズが「正直、公正、石破茂」だ。自民党関係者は口をそろえて、「よく言うよ」、「不実・不公正・百万円」ではないか、と盛り上がったと言う。

 

これは月刊WiLL10月号の「これが石破茂だ!絶対に総理にしてはいけない男」(永田二郎氏)に書かれている一文だ。

 

そこには石破の「不実・不公正」振りが沢山書かれているので、簡単にそれを紹介しょう。

 

 

まず第一は20082月の海上自衛隊イージス艦あたご」が南房総沖で漁船と衝突して、漁船の親子が死亡した海難事故への石破の対応だ。その時石破は、防衛大臣を務めていた。

 

この時石破は、マスコミにおもねる発言ばかり繰り返し、部下である自衛官を一切守らなかった。その事故の状況の事実には一切言及せずに、自衛隊側に全面的に非があるかのような印象を、トップ自ら与え続けたと言う。これでは防衛大臣としての、事故の再発防止策の策定や防衛力の向上などの施策には、一切役立たない。石破は暴走するメディアに付和雷同した、と喝破されている。そして真実の追求と言う課題から「逃亡」し、身内を売り部下に責任を押し付けると言う防衛大臣としての役目も放棄してしまっている人物は、総理の器ではない、と断言されている。総理の器と言うよりも「人間」としての欠片もない、と言いたかったのではないのかな。

 

結局、刑事裁判では一、二審とも「あたご」側には回避義務はなかったと結論付けられて、海上自衛官全員が無罪となっている。石破は自衛官OBや関係者に謝罪を求められたが、頬かむりをしたままだと言う。無責任、不実、不公正、石破茂

 

第二は、政策面で踏み込んだ発言をするのは、自分が責任を取ることがない外野に居る時だけだと言っている。

 

石破は、憲法自衛隊の存在を明記するために、憲法九条二項を削除すべきだと繰り返し主張していた。この問題に対しては、「二項削除」はわかりやすく、憲法論としても正論であり、安倍陣営としては、これを石破が争点としてきたら厄介だと警戒していたと言う。

 

しかし蓋を開けてみると、石破は九条問題の議論から見事に「逃亡」していた。出馬会見では、憲法改正において九条問題優先順位は高くない抗弁した、と永田二郎氏 は非難気味に書いている。

 

ちなみに憲法九条を下記する。

 

第二章 戦争の放棄

第九条[戦争の放棄、軍備および交戦権の否認]
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、 武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、 永久にこれ を放棄する。

 前項の目的を達するため、 陸海空その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


そして「石破はこれまでの勇ましい「二項削除」の主張を完全に封印した。これを聞いたチーム安倍の最高幹部は、「本当に中身が何もない男なんだね」と呆れ果てたと言う。」と書いている。

 

 

本来はこの憲法九条一項は改訂され、二項は削除されなければならないものである。そうでなければ、日本国を守ることはできない。

 

 

 

第三は、「非核三原則見直し」だ。石破は昨年、盛んに「非核三原則」の見直しに言及していた。

 

 

石破氏、非核三原則見直し言及 「抑止力十分か」

2017/9/7 0:51

 自民党石破茂元防衛相は6日のテレビ朝日番組で、非核三原則の見直しに言及した。相次ぐ北朝鮮の核実験やミサイル発射を踏まえ「米国の核の傘で守ってもらうといいながら、日本国内には(核兵器を)置かないというのは本当に正しい議論なのか」と語った。

 石破氏は「感情的には持ち込ませない方がいいに決まっている」と指摘。核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則について「抑止力として十分か考えないといけない」と強調した。

 日本が核兵器保有することについて「唯一の被爆国である日本が核を持てば、世界中どこが持ってもいいという話になる」と否定的な立場を示した。防衛相経験者の石破氏の非核三原則見直し論は日本国内外に波紋を広げる可能性もある。

https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS06H7H_W7A900C1PP8000/2017.9.14 17:35

自民・石破茂元幹事長「非核三原則の見直し議論せず北朝鮮の脅威ばかり言ってもどうにもならない」 派閥会合で指摘

2017.9.14 17:35


自民党の石破元幹事長=13日午後、福岡市内のホテル   

 自民党石破茂元幹事長は14日の派閥の会合で、非核三原則の見直しを議論すべきだとの考えを改めて示した。「議論もしないで、『米国の核の傘があるから大丈夫だよね』『ミサイル防衛があるから大丈夫だよね』って。本当に日本の独立と平和は達成されるのか」と述べた。

 石破氏は「日本も結論はともかくとして、きちんと議論をしないで北朝鮮の脅威ばかり言いつのっても、どうにもならないのではないか」と指摘した。

 また、憲法912項を維持した上で自衛隊の存在を規定する安倍晋三首相(党総裁)の改憲案について「党議決定は平成24年の党改憲草案のまま残っている。そのことについて説明を全くしないで、1項、2項そのままで3項をつけ加える議論は、どう考えても党内民主主義としておかしい」と強調した。

http://www.sankei.com/politics/news/170914/plt1709140021-n1.html

 

今は自分が外野にいるからこそ、踏み込んた主張をしているだけだ。過去に彼は三年間も防衛大臣(長官)を務めている。その時には、見直しを進めるべき時であったにも拘らず、何もしなかった。外野に居る時だけは正論を声高に述べている。これではダメだ。

 

 

第四は、森加計問題の石破の政権批判だ。冒頭に述べておいたが、地方創生大臣の職にありながら、何もせずに地方が疲弊している、などと政権批判する。自分の責任を棚に上げている。

 

 

第五は、今回の立候補に際しての政策だ。きれいごとは盛んに言っているが、何も中身を発表していない。「何をどうするかは、総裁に当選した後に作ると言ってのけた。石破が「逃亡」したのは、憲法論議だけではなく、すべての政策だったのだ。」と永田二郎氏は書いている。

 

 

 

第六は、石破は究極の逆臣だ、と言う事だ。「(石破は)派閥を解消しますと言って、無派閥の会を作って、石破派に変えたんでしょ。言っていることと、やっていることが違うのはあんたじゃないか」と、麻生財務大臣811日に、石破の変節癖をバッサリと切り捨てた、とも書いている。

 

過去には1993年に自民党が野党に転落した時には、石破は「私は政権与党にいたい。自民党の歴史的使命は終わった」と離党して小沢の元に走っている。しかし1996自民党が復活し出すと新進党を離党し、1997年には何食わぬ顔をして自民党に復党している、と書かれている。

 

 

このように、この論考は、石破の「究極の外道」振りを紹介している。

 

そして「反安倍なら、無能でも外道でも、新聞やテレビが好意的に取り上げてくれる。自ら閣僚や党幹部を務めた政権を誹謗中傷する。主張を変え、親分を変え、政党まで変える「政界渡り鳥」

と結んでいる。

 

 

安倍氏3選へ、党員支持55

石破氏が追い上げ、自民総裁選

2018/9/15 21:22   ©一般社団法人共同通信社

討論会で議論する安倍首相(左)と石破元幹事長=14



 共同通信社1415両日、自民党総裁選(20日投開票)の地方票を持つ党員・党友を対象に、支持動向を電話で調査した。安倍晋三首相(総裁)に投票するとの回答は55.5%で、石破茂元幹事長は34.9%だった。今月78両日の前回調査から安倍氏5.5ポイント減。石破氏は6.3ポイント増やし、追い上げた格好だ。安倍氏は国会議員票で大きくリードしており、連続3選が濃厚な情勢は続いている。

 総裁選の仕組みに従って換算すると、安倍氏の地方票は全405票のうち約250票。国会議員票も345票前後を獲得する情勢で、計810票の約4分の3を確保している計算となる。

https://this.kiji.is/413619077707957345

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(25)

12. 神武東征(東遷) は事実なのか、それはいつか

 

 

大阪天満宮は、JR東西線の「大阪天満宮駅」3番出口を出て、50~60mのところにある。と言われても大阪の地理に詳しくないと、その位置関係はぴんと来ない。

 

大阪城の北西、大川を超えた向こう側の位置している、と言った方が土地勘のないものにはわかりやすい。

 

此の大阪天満宮に「神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑」がある。

 

これは皇紀紀元2600年の記念事業として、日本建国にまつわる聖蹟に顕彰碑を施設する事業の一環として、施設されたものである。神武天皇が難波の地に上陸した場所を顕彰して設置されたものである。

 

神武天皇が海路を辿り上陸した地が、難波之碕と呼ばれている場所である。大阪城辺りから天満付近の辺りだと言われている。当然現在の地形とは、当時(紀元前1世紀頃)は似ても似つかぬものであった。

 

 

 

神武天皇、難波之碕顕彰碑(なにはのみさき)大阪天満宮にある・・

http://www.tukinohikari.jp/jinja-oosaka/topics-oosaka-naniha-jinmu-hi/index.html

参拝履歴

訪問日:平成232011)年814日(日)

神武天皇、難波之碕顕彰碑(なにはのみさき)大阪天満宮にある

難波之碕顕彰碑
 19箇所の顕彰碑はこちら
http://www.tukinohikari.jp/kamina/kamuyamatoiwarehiko/jinmu-kensyouhi/index.html

昭和151940)年710日、難波之碕顕彰碑で、全聖蹟地の顕彰施設起工祭


 紀元2600年(昭和15-1940年)を奉祝する国家的な記念事業を行ふため、昭和101935)年10月内閣組理大臣の諮問機関として紀元2600年祝典準備委員会が設けられ、次いで、昭和111936)年71日官制を以て紀元2600年祝典評議委員会が設けられ、本格的にその審議に当り、左の事業を決定したのであつた。

 本年(昭和15-1940年)710日、神武天皇聖蹟難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑建設地たる大阪市天満宮境内に於て全聖蹟地の顕彰施設起工祭を執行(とりおこな)つたのである。
 本工事は、大体本年中に完成の見込であるが、遅(おそ)くも、来年早春の期には全部竣工するであらう。

神武天皇、難波之碕顕彰碑(なにはのみさき)

難波之碕顕彰碑

難波之碕顕彰碑

 

http://www.tukinohikari.jp/jinja-oosaka/topics-oosaka-naniha-jinmu-hi/index.html

 

 

この大阪府の作成した顕彰碑(説明版)の文言は、次を見ればよくわかる。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(24)

神武東征(古事記

投稿:2013年03月13日 更新:2013年03月13日

https://nihonsinwa.com/column/novel/12.html

 

の中に、古事記のこの話がうまくまとめられているので、それを次に紹介しよう。

 

イスケヨリヒメと7人の少女

原文

ここに七媛女(ナナヲトメ)、高佐士野(タカサジノ)に遊行びしに、伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)その中にありき。ここに大久米命その伊須気余理比売を見て、歌を以ちて天皇に白して曰はく、


倭の 高佐士野を 七(ナナ)行く 媛女ども 誰れをしまかむ

ここに伊須気余理比売は、その媛女等の前に立てり。すなはち天皇、その媛女等を見て、御心に伊須気余理比売の最前(イヤサキ)に立てるを知らして、歌以ちて


答曰へたまはく、かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ

ここに大久米命、天皇の命以ちて、その伊須気余理比売に詔りし時、その大久米命の黥ける利目を見て、奇しと思ひて歌ひて曰はく、


あめつつ ちどりましとと など黥ける利目

ここに大久米命、答へて歌ひて曰はく、

媛女に 直(タダ)に逢はむと 我が黥ける利目

故、その嬢子(ヲトメ)、「仕へ奉らむ」と白しき。

 

現代文訳

七媛女(ナナヲトメ=7人の少女)が、高佐士野(タカサジノ)に遊びにいきました。 その7人の少女の仲に伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)がいました。 そのとき大久米命(オオクメ命)が伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を見て、歌で神武天皇に申し上げました。


「大和の高佐士野を行く、7人の少女たちよ 誰を妻にしようか」

伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)は少女たちの先頭に立っていました。神武天皇はその少女たちを見て、伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)が先頭に立っていると分かり、歌で答えました。

「ともかく一番先に立っている年上の少女を妻としよう」

そこで大久米命(オオクメ命)が神武天皇の言葉を伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)に伝えました。すると伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)が大久米命(オオクメ命)のの黥ける利目(黥目=目に入れ墨をしている=南方の風習で九州ではやっていた)を見て、不思議に思って歌い答えました。

「どうして鋭い目をしているのですか??」

大久米命(オオクメ命)は歌って答えました。

「お嬢さんに会うのに刺青をして鋭い目に(そのお顔を直ちに心に刻み込もうと)しているのです」

こうしてイスケヨリヒメは天皇に「仕えます」と答えました。

https://nihonsinwa.com/page/458.html

 

先の書では、次のように締めくくっている(先の書76頁)。

 

「そして考古資料と『記紀』及びシナ正史で裏付けられた動かし難いこの事実が、「邪馬台国大和説」や「北部九州の邪馬台国などが東遷して大和朝廷になった」なる説を打ち砕くことになったのである。」

 

邪馬台国は東遷などはしてもいないし、ヤマトの地に存在していたものでもない邪馬台国は北部九州から朝鮮南部を領有していた倭国連合国家であり、日本国(ヤマト)ではない。邪馬台国は、その日本国(ヤマト)に併合されていたのである。ヤマトの地には、邪馬台国よりも古い時代から国(日本)が存在していた、と言う事であろう。

 

では更なる昔にヤマトの地を平定したと言う、神武東遷」とは、何であったのか。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(23)

だから倭国邪馬台国が、そのまま大和・日本になったのではないのである。

 

長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)では、もう一つその理由を述べている。

 

それは、魏志倭人伝の「男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。」に大いに関係していることである。

 

旧唐書では「日本国は、倭国の別種なり。」とされているが、それは当時のシナ人が接した大和の人々には、同じ言葉を話しているのに、倭国でみられるこの黥面文身の習俗が見られなかったからに違いない、と長浜氏はこの本の66頁で述べている。

 

 

黥面文身とは、顔や身体に刺青(いれずみ)をすることであるが、倭国では普通の習俗であったようで、このことは「後漢書 倭伝」にもそのような記載がある。

 

829日のNO.16で引用した 後漢書倭伝の後半には、次のような文言が記載されているので引用させてもらう。

 

 

(略)

 

男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差 其男衣皆横幅結束相連 女人被髪屈紒 衣如單被貫頭而著之 並以丹朱坋身如中國之用紛也
 
「男子は顔や体に入れ墨し、その模様の左右や大小の違いが尊卑の差になっている。その男子の衣服はみな横幅のある布を結んでつなげている。女子はおでこに髪を下ろし、うしろは折り曲げて結う。衣服は上敷きのような一枚布に頭を入れて着るが、赤い顔料を身にまぶす。これは中国でおしろいを用いるようなものである。」

(略)

 

日本でも、古くは縄文中期の土偶に顔面線刻表現のものが出土しているようなので、そのころから入墨の風習はあった様だ。そして弥生時代から古墳時代の初期に到るまて、黥面絵画が施された土偶が発掘されている。

 

しかし2~4世紀には、近畿地方では黥面習慣が消えてしまっている様で、そのような黥面絵画が施された土偶は一切出土していないのである。

 

長浜氏はこのことを、この習俗と無縁だった大和朝廷の影響力が、畿内全域に拡大していったことを暗示している、と書いている(先の書70頁、以後長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)を先の書と呼ぶことにする。)。

 

日本の入墨の習俗はどこからもたらされたものかは、必ずしも明らかではないが、黥面文身は海に入って魚などを取るために、サメなどの攻撃を避けるためのものであったもので、魏志倭人伝にも次のように書かれている。

 

 

今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう、はまぐり)を捕う。文身し亦(ま)た以て大魚・水禽(すいじゅう)を厭(はら)う。後稍(や)や以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右に、あるいは大にあるいは小に、尊卑(そんぴ)差あり。

 

 

諸国の文身各々異なる」と書かれているように、各地の倭人には黥面文身の習慣があり、魏国ではその情報が共有されていたようだ。

 

紀元前一世紀(BC91年頃)に成立したと言われている史記に、当時の江南地方の非漢人には入墨の習慣があったと言う記述があると、先の書には書かれている。

 

更に次のようにも記載されている(先の書、67~68頁)。

 

学習院大学の諏訪春雄教授は、揚子江下流域の江南地方の馬橋文化(4千年前~2千7百年前)の時代、ここから「大量の縄文土器が出土している」と次のように書き記していた。

 

「直接手に取ってこの土器を見せてもらったが、私の目では、日本の縄文土器と区別がつかない程良く似ている。日本の縄文土器は、馬橋文化の出土品より古く遡るが、日本の縄文時代と江南文化との交流は興味深い研究課題である」(161)(『日本人はるかな旅4NHK出版)

 

縄文時代の人たちはこの地にも進出し、入墨の風習を取り入れた可能性もある。・・・

 

そして先にも記述しておいたが、各地で黥面絵画の書かれた土偶が出土するようになった訳であるが、二~四世紀になると黥面絵画が発掘される地域は限られており、その間近畿地方からは一つも黥面絵画が出土していないと、先の書には書かれている(70頁)。

 

 

そして『また、「ヤマトの地に黥面習慣はなかった」ことを裏付ける説話が、古事記に書き遺されていた。神武天皇がヤマトの地で后を撰ぼうとしたときの会話がそれである。

 

「そこで大久米命が、天皇のお言葉をその伊須気余理比売に告げ明かしたとき、ヒメは大久米命の入墨をした鋭い目を見て、不思議に思って歌っていうには(中略)どうして目尻に入墨をして、鋭い目をしているのですか」

 

この記述は、大和の地で育った彼女は、顔に入墨をする人を見たことがなかったことを表している。大久米命のみが特筆されているから、神武天皇に入墨はなかったに違いない。

 

と続いている(71~72)

 

 

このことは、ヤマトの地には黥面文身の習俗がなかったことを示すものである。

 

と言う事は、魏志倭人伝倭国邪馬台国は「男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。」と言う表見の地は、ヤマトではなかった、と言う事を意味する。

 

倭国邪馬台国はやはり北九州の地にあったのであり、ヤマトの地ではなかったことの証明である。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(22)

そして次に、倭国伝を示す。

 

 

旧唐書
くとうじょ
倭国伝・日本伝


倭国

倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。
婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22648)になって、倭国王は再び新羅遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

 

 

(日本伝は省略)

 

https://himeluna.exblog.jp/18047954/

 

 

旧唐書は、五代十国時代8/28の当ブログ参照のこと)の後晋の役人によってその前の時代の唐の歴史を書き留めた歴史書の「唐書」であるが、後の宋の時代に「新唐書」がつくられたために、「旧唐書」と呼ばれるようになったものであるが、どちらかと言うと生の資料が使われているために、旧唐書の方が重宝がられている、と言われている。

 

日本のことは、倭国日本国伝との二本立てとなっており、その当時でも九州の北部を倭国と認識しており、倭国とは別に日本国があることも分かっていたのである。

 

しかも「日本国は、倭国の別種なり。」と認識していたのである。

 

魏志倭人伝にも「女王國の東、海を渡ること千余里、また國あり、皆倭種なり。」と記述されているように、古くから日本列島には、お互いに言葉が通じ合う『倭人(倭種)』が住んでいることを認識していたことと思われる。

 

ここでも(旧唐書でも)、倭国も日本国もみな倭種である、と認識している。

 

しかし「日本国は、倭国の別種なり。」(日本国は、古イニシエの倭の奴国の倭国とは異なる習俗を持つ国である。)と明確に記述している。しかも「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。」(また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。)とあるように、

その日本国は九州の倭国を併合しているのである。

 

 

長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)の65には次のように記載されている。

 

これは「大和朝廷の使者が、理由を添えて、国の呼称を倭国から日本国に変えるように申し出た」説明文である。意訳すれば次のようになろう。

 

 

日本国は、嘗ての倭国とは異なる習俗を持つ国である。

その国は”日出る国、ゆえに日本と言う名を用いている”。或いは”倭国は今の我々の国の正しい呼称ではないので不適当であり、改めて日本国とした”という。

また日本の北部九州の旧小国・倭国の地を併合したという。

 

 

先の旧唐書の日本国伝を読めばわかるのであるが、この長浜浩明氏の訳文は、すこぶる簡潔で分かりやすい。

 

これは明らかに「大和朝廷が邪馬壱国(邪馬台国)を併合した」と言う事を主張しているものであり、「邪馬壱国(邪馬台国)が大和朝廷になった」、などと言う事ではない。大和朝廷倭国などとは関係なく、独自に国家を成立させていた訳である。それも倭国などよりも相当旧い時期に遡る必要がありそうだ。この話は、神武東征の話に行き着くことであるが、章を改めてまとめてみたいと思っている。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(21)

11.邪馬壱(台)国は大和に併合されていた

 

しかし倭国邪馬台国が、そのまま大和・日本になったのではない。

 

なぜなら邪馬台国が東遷したと言う記録がないからである。

 

   東遷したのは、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)である。またの名を彦火火出見尊(ひこほほでみのみことである。いわゆる神武天皇のことである。

 

この「漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。 」とは、Wikipediaの説明である。

 

 

また天照大神卑弥呼である、と言う事も証明されているわけでもない。247年に卑弥呼は死んでいるが、感覚的には、天照大神はもっと古い時代の話ではないかと、小生には感じられるのである。

 

天照大神が天の岩戸にお隠れになった時に、八百万の神々が集まって「どうしたものか」と喧々諤々相談したところが天の野洲の河原であるが、この河原も琵琶湖に注いでいる野洲川の河原であるとか、はたまた大和の明日香川が昔安川と呼ばれていたことから明日香川の河原であるとか、九州の野洲であろうと言った話もあり、定まっていないようである。

 

しかし感覚的には、小生には大和の地の方が、古事記には合っているように感じられるのである。

 

と言うのも、大和を平定した 神日本磐余彦天皇は、天照大神の五代目の子孫であることから、大和にあったと想定したいものである。

 

尤も天の野洲の河原は、高天原での出来事なので天上界の話となろう、従って地上での該当地は、あらゆるところが想定されていていても不思議ではない、と思われる。

 

 

と言った話はさておき、なぜ「邪馬台国は東遷していない」と断定できるのか、と言うと、中国の史書にそのような記録が残っているからである。

 

その中国の史書とは、旧唐書の巻199上 列伝第149上 東夷 の中に、倭国日本国伝の2つの並立している記録である。そこに倭国と日本国のことが記述させれている。

 

なお今まで特に断りもせずに「邪馬台()国」と表現してきたが、魏志倭人伝には「邪馬(壱)国」と記載されているので、「邪馬壱国」が正しい表現かも知れないので、念のため。

 

 

先ずは旧唐書・日本国伝。

 

 

旧唐書   日本国伝

20160426()

テーマ:
古代史の史料 倭人伝など

日本国は、倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるを以って、故に日本を以って名となす。或いは云う、倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。

或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)にして実(じつ)を以って対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う。またいう、その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。

 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12154087690.html

 

現代語訳は以下のとおり。

現代語訳 『旧唐書』日本国伝

20160426()

テーマ:
古代史の史料 倭人伝など

 

日本国は倭国の別種である。(だから、別国である)その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。

あるいは、このように言っている。「倭国はその名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた」と。また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。

その国人が唐朝廷に参上した時は、その多くが自国を広大と自慢し、真実をもって対応しようとしない。従って中国側としては、彼らの主張するところに疑念をもっている。

また言うには、「その国の領域は東西南北がそれぞれ数千里で、西境と南境はいずれも大海に達し、東境と北境にはそれぞれ大山があって限りとなっている。その大山の向こうには、彼らに従わない民族の国(それを毛人と称している)がある」と。

 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12154091518.html

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(20)

24312月 倭王は使大夫伊声耆(イセイギ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人を遣わしているが、

247年には 倭王・難升米に、詔書・黄幢を拝仮した結果、卑弥呼が死んでいる

そのため、男王・難升米を立てたが、内戦状態となり、難升米は失脚する。   そして、

247年に 卑弥呼の宗女壱与(又は臺=台与)十三才を王とすると、国中が定まる。 そして

247年頃 壱与は、大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わしている。伊声耆はいない。

 

 

こうしてみると、内戦状態の当事者は「倭王・難升米、使大夫伊声耆(イセイギ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人」ではないのかな。

 

この結果、難升米や大夫伊声耆は、敗死か逃亡、または、負け組となり、掖邪狗(ヤヤコ)がこの権力闘争の勝利者となったのではないのかな。おそらく新女王壱与の後見人だろう、とこの同書は解説している。壱与のお父さんかも知れない、とも言っている。

 

まあこんなところではないのかな、。難升米も余分なことを仕出かさずに、女王・卑弥呼の下で倭王としての権力をふるっていれば、長生き出来たかもしれないのに。

 

少し重複してしまったが、この魏志倭人伝の「姉・卑弥呼」と「弟・難升米」の話は、古事記日本書紀の「姉・天照大神」と「弟・須佐之男」の話と、全く重っていることに気付くはずだ。

 

同書では「古事記」と「倭人伝」の事柄を対比して、そのことを説明している(316~317頁)。

 

 

しかし、今まで見たように、姉が女王卑弥呼で、弟は「男弟」で伊都国王の難升米なずめとすれば、「倭人伝」も「古事記」と同じく姉と弟の戦い、となる。

 

古事記)、アマテラスは神をまつる独身の女性で、鏡が好きで、弟がいる。

倭人伝)、卑弥呼は鬼道につかえる独身の女性で、鏡が好きで、弟がいる。

 

古事記)、アマテラスは高天原を治め、弟は海原を治める。

倭人伝)、卑弥呼は共立された女王で、弟が佐すけて国を治め、海外交渉する。

 

古事記)、弟は強力な男神で、山川が鳴り騒ぎ、国土が振動する。

倭人伝)、難升米は諸国を検察し畏憚させる。

 

古事記)、弟は根の堅洲国行きを願うが、アマテラスは弟が国を奪うと疑い、武装して戦い敗れる。

倭人伝)、難升米に魏の詔書と黄幢がおくられる。

 

古事記)、弟の乱暴により、アマテラスは機織り場で死に、岩戸に隠れる。

倭人伝)、魏の詔書と黄幢がおくられると、「卑弥呼以死」に。弟が王になる。

 

古事記)、世界は闇となり、多くの神々の騒ぐ声は夏の蠅のようで、あらゆる災いが起こる。

倭人伝)、「国中不服」であり「相誅殺」しあい、当時、千余人が殺された。

 

古事記)、神々が相談し、岩戸からアマテラスを呼び戻す。

倭人伝)、卑弥呼の宗女の十三歳の壱与を立てたら、「国中」は遂に定まった。

 

古事記)、弟は神々から罰を与えられ、追放される。

倭人伝)、壱与は掖邪狗等二十人を遣わし、魏の都に朝貢させる。

 

卑弥呼・あまてらす難升米・すさのおが、姉と弟であれば、「古事記」と「倭人伝」は、綺麗にピッタリと重なる。もちろん、偶然ではない。

 

・・・・・

 

すると、アマテラスの名は卑弥呼であり、スサノオの名は難升米ナズメ、岩戸から出た新アマテラスの名は、壱与いよ、十三歳だ。

 

 

そして「古事記」では壱与・新アマテラスは、常に高御産巣日神タカミムスビノカミと一緒に登場すると、同書には書かれており、きっと掖邪狗(ヤヤコ)がこの高御産巣日神タカミムスビノカミと同一人物ではないか、と言っている。

 

 

そして最後に「古事記」の次の言葉を載せている。これは武田祐吉氏(角川文庫版)の訳である、と書かれている。

 

 

かれここに天の日子番ひこほの邇邇芸ににぎの命、天の岩位いわくらを離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威いつの道き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき

・・・・・・・・

ここに詔たまわく、「此地ここは韓国に向ひ笠沙の御前みさきにま来通りて、朝日の直ただ刺す国、夕日の日照ひてる国なり。かれ此地ここぞいと吉き地ところ」と詔りたまいて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷椽ひぎ高しりてましましき。

 

つまり高天原天孫降臨の物語である。そして、その地理的条件は、

筑紫にあり、

韓国に向かい、

海と岬が見えて、

朝日と夕日がどちらも強く直射たださ

高い山、

である。福岡県の話だが、もし仮に、この高祖山たかすやまと考えて、指を一本ずつおると、五本の指がみんな折れるのだ。➀から➄を満たす山は、福岡県(筑紫)には他にない。これはトンデモナイことだ。読者も、一本ずつ、指をおっていただきたい。

 

 

高千穂とは宮崎県の高千穂峰であろう、と大方想像されることと思われるが、宮崎県の霧島連山高千穂峰では、上記の五つの条件の一つとして合わないのではないのかな。

 

ここはやはり福岡県に天孫は降臨されたのではないのかな。即ち天照大神卑弥呼の宮殿があったところと言えば、先にも高祖山であろうと言及した通り、筑紫であり霧島ではないことになる。

 

グーグルアースの地図で、そこに、クシフルダケと書かれていたことを、おぼろげながら思い出す。

 

地元では「クシフルタケ」と呼ばれている山があります。次を参照願う。

 

 

(2)筑紫の日向について
 古事記日本書紀にも、この「筑紫の日向」という言葉が出てきます。神代(しんだい)の巻の中心となる「天孫降臨」の段です。

 筑紫(ちくし)の日向(ひなた)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に天降(あまくだ)りましき。(古事記 上巻)

のようです。ニニギノミコトが、祖母のアマテラスオオミカミ(もとの名は、アマテルオオカミ。)の命令によって、この地「筑紫の日向」にやってきた、というのです。
 ここでも、指す地帯は同じです。筑紫は、今の福岡県。そのなかに「日向(ひなた)」という地帯があります。その地帯の高祖(たかす)山の「たかす」とは、"高いところにある人間のすまい" という意味。考古学でいう「高知性集落」という意味に似ています。
 福岡県の久留米の近くに鳥栖(とす)という駅がありますが、この「す」も同じです。今では鳥の巣などにしか使いませんが、昔は人間にも使ったことは、「住む」「住み家(すみか)」といった言葉を見ても、分かります。「高」は、もしかしたら「鷹」かもしれません。〃鷹の住むような場所〃という意味です。一方の「高千穂」の「千穂」は〃連峰〃〃山並み〃という意味ですから、「高祖(たかす)」と「高千穂」と言葉は、同じ場所を、別の言い方で呼んだものだと思います。
 肝心の一語。それは[クシフルタケ」です。この福岡県の高祖山連峰の中では、「クシフルタケ」という山があるのです。土地のお百姓さんたちの日用梧として使われています。
「クシフルの山から猪が出てくるんじゃ。」 といった風に。

 筑紫(=竺紫)は、現地の人々は「チクシ」と言い、他の地方の人々は「ツクシ」と言います。
 「チクシ」の「チ」は「千(せん)」。ほめ言葉です。
 「ツクシ」の「ツ」は「津」。〃港のある「クシ」の地〃という意味です。外部の人々は、舟でこの地を訪れました。すばらしい港(博多湾)に恵まれた、この地を「津クシ」と呼ぶようになったのでしょう。
 この「チクシ」と「ツクシ」、この二つの呼ぴ方に共通しているのは、「クシ」という地名です。「コシ(越)」(新潟県

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nihon/jsub002.html

(第一部終わり、第二部へ続く