邪馬台国とはなんぞや?(21)

11.邪馬壱(台)国は大和に併合されていた

 

しかし倭国邪馬台国が、そのまま大和・日本になったのではない。

 

なぜなら邪馬台国が東遷したと言う記録がないからである。

 

   東遷したのは、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)である。またの名を彦火火出見尊(ひこほほでみのみことである。いわゆる神武天皇のことである。

 

この「漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。 」とは、Wikipediaの説明である。

 

 

また天照大神卑弥呼である、と言う事も証明されているわけでもない。247年に卑弥呼は死んでいるが、感覚的には、天照大神はもっと古い時代の話ではないかと、小生には感じられるのである。

 

天照大神が天の岩戸にお隠れになった時に、八百万の神々が集まって「どうしたものか」と喧々諤々相談したところが天の野洲の河原であるが、この河原も琵琶湖に注いでいる野洲川の河原であるとか、はたまた大和の明日香川が昔安川と呼ばれていたことから明日香川の河原であるとか、九州の野洲であろうと言った話もあり、定まっていないようである。

 

しかし感覚的には、小生には大和の地の方が、古事記には合っているように感じられるのである。

 

と言うのも、大和を平定した 神日本磐余彦天皇は、天照大神の五代目の子孫であることから、大和にあったと想定したいものである。

 

尤も天の野洲の河原は、高天原での出来事なので天上界の話となろう、従って地上での該当地は、あらゆるところが想定されていていても不思議ではない、と思われる。

 

 

と言った話はさておき、なぜ「邪馬台国は東遷していない」と断定できるのか、と言うと、中国の史書にそのような記録が残っているからである。

 

その中国の史書とは、旧唐書の巻199上 列伝第149上 東夷 の中に、倭国日本国伝の2つの並立している記録である。そこに倭国と日本国のことが記述させれている。

 

なお今まで特に断りもせずに「邪馬台()国」と表現してきたが、魏志倭人伝には「邪馬(壱)国」と記載されているので、「邪馬壱国」が正しい表現かも知れないので、念のため。

 

 

先ずは旧唐書・日本国伝。

 

 

旧唐書   日本国伝

20160426()

テーマ:
古代史の史料 倭人伝など

日本国は、倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるを以って、故に日本を以って名となす。或いは云う、倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。

或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)にして実(じつ)を以って対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う。またいう、その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。

 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12154087690.html

 

現代語訳は以下のとおり。

現代語訳 『旧唐書』日本国伝

20160426()

テーマ:
古代史の史料 倭人伝など

 

日本国は倭国の別種である。(だから、別国である)その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。

あるいは、このように言っている。「倭国はその名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた」と。また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。

その国人が唐朝廷に参上した時は、その多くが自国を広大と自慢し、真実をもって対応しようとしない。従って中国側としては、彼らの主張するところに疑念をもっている。

また言うには、「その国の領域は東西南北がそれぞれ数千里で、西境と南境はいずれも大海に達し、東境と北境にはそれぞれ大山があって限りとなっている。その大山の向こうには、彼らに従わない民族の国(それを毛人と称している)がある」と。

 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12154091518.html

(続く)