日韓併合100年(65)

そして日本政府は1904年2月10日に、ロシア政府に宣戦布告を通達した。

この時代は、国交を断絶した場合宣戦布告なしに攻撃が出来た。従って旅順口

急襲は合法的な処置であった。国交を断絶している以上、何時攻撃されても良

いように準備しておく必要があるのである。パーティー何ぞで浮かれていたと

は、日本を馬鹿にしきっていたことの証左なのである。なのに旅順口奇襲作戦

は敗した。しかも旅順艦隊は旅順港に篭ってしまった。

 
日本軍はバルチック艦隊が到着する前に、なんとしてでも旅順艦隊第1太平

洋艦隊
)を撃滅する必要があった。しかし今は旅順港の篭ってしまい出てこな

い。しからば旅順港を封鎖してしまう作戦を考えた。これが旅順港閉塞作戦

ある。

 
この旅順港閉塞作戦は、常備艦隊参謀で、1904年2月6日に旗艦「三笠」乗

艦を命じられた秋山真之海軍少佐が発案したものであった。真之は、騎兵の父

と言われた秋山好古騎兵第1旅団長少将の弟であることはすでにご承知のこ

とと思う。秋山真之(大尉)は、1897年(M30)6月26日、米国駐在武官に異

動を命じられ、そして1898年アメリカへ留学する

 
そんな時1898年2月15日ハバナに派遣していたアメリカ海軍戦艦メ

イン
が爆発し沈没してしまう。キューバは当時スペインの植民地で、独立運動

が起こっていた。キューバ島はそのため、半分が独立軍に支配されスペイン軍


は苦戦していた。爆発原因はいまだ不明であるが、一般的には石炭の偶然に

爆発によるものとされている。これはコンピューター・シミュレーションによって確

認されているとWikipediaに記載されているが、発展途上だった(販売部数を伸

ばしたかった)アメリカの新聞がこれに飛びついた。もともとキューバでの独立

運動でのスペインの残虐行為を誇大に報道していた新聞は、アメリカのキュー

バへの介入を煽(あお)っていた。それにも増して、キューバ経済はアメリカに依

存し、キューバの貿易はほとんどがアメリカとであった。そしてこのメイン号の爆

発を、「メインを思い出せ! くたばれスペイン!」と言う好戦的で感情的なス

ローガンで報道したため、キューバはアメリカのものと思っている国民を一層刺

激してしまった。アメリカもスペインも紛争の拡大には、完全に反対であった。し

かもアメリカの「イリアム・マッキンリー大統領も世論に対してかなり長い間

持ちこたえていたが、このメイン号の爆発で世論に抗しきれずに1898年4月

11日
に米軍派遣の権限を求める議案を提出し、議会も4月19日に「キューバ

の自由と独立を求める共同宣言
」を承認し、軍事力の行使を承認する。これを

受け、スペインもアメリカとの外交関係を停止する。

 
このメイン号には、7名の日本人のコックとボーイが乗船していたが、帰らぬ人

となっている。これは「
アメリカの太平洋侵略

http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/5070/kindai/PacificWar.html)に

載っている。

 
1898年5月19日
、スペイン大西洋艦隊がキューバ南端のサンティアゴ

入港する。サンチィアゴ湾は現在のグアンタナモ米軍基地のすぐ西に位置して

おり、キューバ島を変形の左に傾いた鋭い三角形と見立てると、その底辺の中

央部(南端)に位置している。世界地図を見ると、サンチィアゴデクーバという

地名である。そこの岬のサンペドロデラロカ城という要塞が、世界遺産となっ

ている。

 
アメリカ大西洋艦隊はサンティアゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を

攻撃することになる。この状況を観戦武官として秋山真之大尉が観察しており、

このサンチィアゴ閉塞作戦は後の日露戦争における日本海軍の旅順港閉塞

作戦
の参考とされた、・・・と Wikipediaに記載されている。


(続く)