日韓併合100年(83)

この間ロシア側でも大いなる間違いが発生していた。沈旦堡と間違えてその北

に位置する小樹子を攻撃し占領し、沈旦堡攻略をグリッペンベルクに報告しこれ

を喜んだグリッペンベルクはクロパトキンに電話で報告している。しかしそれが

間違いだと判ってからはロシア軍の士気は低下した。しかし黒溝台前面(東南)

から沈旦堡にかけては、激戦が続いていた。


そして1/28朝にはロシア軍も疲労が目立ち始めていた。そして日本軍も援軍が

戦線を構築し始めていた。日本軍は「明29日」を期してロシア軍を撃破すべく

計画されていた。しかしクロパトキンは、日本軍第2軍からの支援砲撃の報告を

け、日本軍中央部隊の第2軍、第4軍の中央攻撃ではないかと憶測をした。もと

もとグリッペンベルクの第2軍の攻撃には、消極的だった上にこの中央突破の

不安に駆られ、1905/1/28の午後4時ごろグリッペンベルクの第2軍に対して攻

撃中止と退却を訓電した、と
日露戦争 5」(児島襄のぼる)は述べている。この

結果として、黒溝台は第八師団の夜襲により取り戻すことが出来たが、ロシア

軍が自ら手放しただけであった。


ここに辺の事情を、
司馬遼太郎の「坂の上の雲4」では次のように述べている。

  
「なるほど大山・児玉は、中央に兵力をほとんど左翼の火事場に移したため、そ

れを敵に気づかれぬように偽装攻撃をわずかながらクロパトキンの中央に対し

てかけた。この陽動作戦(ともいえぬほどの微弱な攻撃)にクロパトキンの過敏

な神経は見事に反応したのである。だから、”ひきあげて来い”と、第2軍10万

を率いるグリッペンベルクに命じだのだが、しかし素人が総司令官であってもク

ロパトキンのような命令は出さないであろう。日本軍がロシア軍中央に攻撃をし

かけてくれば、逆にそれに対して攻撃をかければ、紙を突きやぶるような容易さ

で日本軍の中央を潰乱カイランさせることができたのである。となれば、日本軍は

自分の左翼へ駆けつけさせた数個師団を呼びもとさねばならず、それによって

左翼の秋山支隊は全滅し、グリッペンベルクは一瀉千里の勢いで日本軍の本営

を衝けるところであった。」

   
この黒溝台会戦は、日本軍53,800人(死傷9,324人)、ロシア軍105,100

人(死傷11,743人)と、上記
日露戦争 5」(児島襄のぼる)には記載されてい

るが、火砲などはロシア側が3倍近い兵力を要していたようで、まともに戦えば

日本軍に勝ち目はなかった。だからこの危機は日本軍将兵の奮戦とクロパトキ

ンとグリッペンベルクの仲違いによって辛うじて救われたものであり、グリッペン

ベルクはこの後1/31病気と皇帝に申請して、2/4に帰国してしまった、と
「日露戦

争 5」(児島襄のぼる)
は述べている。


クロパトキンには、日本軍をハルビンまで引っ張り込んで壊滅させると言う案を

持ち続けていたために、この退却命令に対しては、それほど残念とも思っていな

かった。日本軍もそのことは十分に弁(わきま)えていた。満州軍総司令部の児

玉源太郎はハルビンまで引っ張り込まれる前に、次の戦いの奉天(今の藩陽

で決定的に叩いておくことは必須であると認識していた。すでにその作戦計画

は彼の手元において成案になっていた、と
坂の上の雲4」は結んでいる。


このように黒溝台会戦は、1905/1/25に始まり、1905/1/29に形の上では終了し

ている。この頃ロシアの首都サンクトペテルスブルグでも、多くの市民がロシア

軍によって殺されている。


いわゆる1905年1月22日の「血の日曜日事件」である。(ロシア暦1/9)

事の起こりは、プチロフ機会金属工場の労働者4人の解雇問題に対する抗議

行動であった。


当時ロシアでも産業革命が進行し、多くの工場が作られていた。そしてペテルブ

ルグの(
日露戦争5児島襄によると)第2青十字孤児院教会兼オリガ救貧院聖

書教師として、1900年に司祭ガボンが採用されている。そしてガボンは、ロシ

ア当局の資金援助を得て、労働者サークル結成に乗り出す。これは労働組合

はなく、いわゆる「文化サークル」であった。そのため当局にとっても、好ましいも

のであったが、それゆえに組織は一万人規模と大きくなって「ガボン組合」と呼

ばれるようになる。

(続く)