3.「田母神論文」と「ブログテーマ」との関連
[田母神論文-→ブログテーマNO.]
第1節-→NO.11(日中戦争は中国共産党が惹き起こしたものだ)を参照のこと。
要旨
(19世紀後半、日本は日清・日露戦争で得た権益を守る為に、各種条約に基
づき中国大陸に軍を配置したのであり、無条約の状態で大陸に進出(侵略)した
ことはない。)
盧溝橋では辛丑条約に基づき日本軍は夜間訓練をしていただけである。
更に上海には日本の紡績工場も在り条約により日本軍も駐留していたが、
1937.8.9待ち伏せで大山勇夫海軍中尉と斉藤要蔵一等水兵(運転手)を銃撃し
殺害する。日本は自重した為、8.12中国軍は日本人区域を包囲し8.13未明中国
軍は砲撃を開始、午後には中国軍による陸上及び日本軍艦にも砲撃を開始し
た。これは蔣介石配下の「張治中」が計画したもので、彼は中国共産党の秘密
工作員であった(「張治中回顧録」)。これらの挑発により日本も反撃を開始す
る。これが第2次上海事変であり、これにより日本は日中全面戦争に引きずり
込まれたのである。中国共産党の目的は、日本軍と国民党軍を戦わせ疲弊させ
第2節-→NO.6(通州事件)を参照のこと。
-→NO.11(同上)
-→NO.22(中国・虚妄のプロパガンダ)第4章・中国人による日本人大虐殺事件
要旨
(これに対し蒋介石国民党は、頻繁にテロ行為を繰り返し邦人に対し大規模な
暴行、惨殺行為を繰り返す。これは国民党内に入り込んだ共産党ゲリラによる
ものであった。)
中国共産パルチザンは、大正9年(1920年)ニコライエフスク港で日本居留民と
守備隊約7百名を虐殺する尼港事件をおこし、更に中国暴民は昭和2年には
南京事件、昭和3年には済南事件、昭和12年には通州事件を起こし、在留
邦人を何百人と虐殺している。そのつど支那を懲らしめなかったことが日本の間
違いであった。
第3節-→NO.11(同上)を参照のこと。
要旨
(日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件は、その共産党ゲリラによるものであ
り、劉少奇も東京裁判で話している。張作霖事件もコミンテルンの仕業との説
が有力となっている。)
第4節-→NO.35(靖国神社に参拝しよう)第3章・海外における大東亜
戦争の捉え方
要旨
(欧米列強の植民地政策は過酷であったが、満州も朝鮮半島も、日本は共に内
地化を図った。そのため満州も朝鮮も治安が回復し、人口が増加した。圧政か
ら開放され生活が向上した。)
このブログの第3章(15)の注書きには、1928年(S3年)に米モルガン財団ラモ
ント代表は「満州は唯一安定し、日本の満州開発は中国の利益になってい
る」と、国務長官オールズに報告している。また、1932年(S7年)に公表された
「リットン調査団報告書」には、「中国は満州に無関心であり、満州の今日の発
展は日本の努力によるものである。しかし満州国は地元住民の自発的意志に
よる独立とは言い難いが、満州にもつ日本の権益、居住権、商権は尊重される
べきである」などと報告している。
「リットン調査団報告書」は正式には、「国際連盟日支紛争調査委員会報告書」
と言う。
(続く)