日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(24)

ふと湖に挟まれた湖西のさびしい道を走りながら

「日本人はどこからきたのでしょうね」

編集部のH氏がつぶやいたのも

どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。

 

しかしこの列島の谷間でボウフラのように湧いて出たのではあるまい。

 

はるかな原始時代には触れぬほうが利口であろう。

 

しかしわれわれには可視的な的な過去がある。

 

それを遺跡によって

見ることができる。

 

となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである。

(この下の図を見ればわかるがこの地理的状況では韓国から日本への南下は

当然 頻繁にあったであろう)

  

その証拠は

この湖西を走る車の窓の外をみよ

無数に存在しているではないか。 ☜ この表現は何を意味するのか?

  

https://ameblo.jp/ara1418/entry-12567921887.html

 

 

 

となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである。

 

 

・・・朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである」などと勝手なことを書いているが、こんなことがまかり通るのか、と馬鹿らしくなる。今まで見てきたように、日本列島人は朝鮮半島なんぞからやって来たものではないし、ましてや大陸からやって来たものではもない。

 

何時の時代のことかは大切な事であるが、きっとこの滴り落ちてきたと言ったバカげた表現は、縄文末期から弥生初期の「水田稲作を携えて日本列島にやって来た渡来人」を想定したものであろう。

 

これは( 街道をゆく! 湖西のみち」・週刊朝日1971 )に載っていたものと言うので、当時としては、このような考え方が一般的であったと思われるので、やむを得ないかも知れないと思われるが、それにしてもいかにも幼稚的な迎合的な物言いである。

 

板付遺跡1978年(S53)で、菜畑遺跡が1980年(S55)なので、1971年に書かれたものであれば、まだこの事実は解っていなかったので仕方がないかも知れない。しかしながら日本列島にある沢山の遺跡に中に、渡来人の物と思われるものは何一つとしてない、という事は既に分かっていることであり厳然たる事実である。だから単眼的な発想に対して、幼稚的といったのである。

 

 

さて、最後のつぶやきの「無数に存在しているではないか。」の意味が分からないので、

 

司馬遼太郎先生と街道をゆく 9

 

もみてみることにする。

(続く)