ALPS処理水放出と習近平の凋落(16)

改革開放以来、用無しだったが 

 

実は人民武装部の設立は今になって始まったことでもない。共産党政権成立直後の1951年に、政権はまず各県と各市の行政区において人民武装を設立。それは「人民戦争=国民皆兵」という理念の元、地方党組織と解放軍の二重指導下で民兵の組織化・訓練・運用を司る部門である。1961年から政権はさらに、人民公社・大中の国営企業・大学などで人民武装部の設立を始めた。 

 

対外戦争における民兵の動員・実戦参戦、対内鎮圧における民兵の活用は人民武装部の二大任務だとされるが、実際、1976年4月に「第一次天安門事件」の際、北京の各国営大企業所属の工人民兵(労働者民兵)の約1万人は動員されて抗議活動参加の民衆に対する血の鎮圧を実施した。その一方、民兵は対外戦争に動員された実例は今までない。国内鎮圧こそは民兵の本当の任務であったと思われる。 

 

1980年代からの改革開放路線の推進で、人民武装部・民兵組織のあり方に大きな変化が起きた。まずは人民公社の解体に伴って農村地域での人民武装部は消滅して、農民民兵は解散された。その後、国営企業の改革(株式化・市場化)に伴って企業における人民武装部と労働者民兵は退場した。県・行政府における人民武装部は組織として残るが、民兵組織は事実上消滅したことで、人民武装部に残れた仕事は国防宣伝や解放軍兵士募集のお手伝いなどとなる。 

 

1989年6月第二次天安門事件に際し、民主化を求める若者たちへの血の鎮圧に動員されたのは正規の解放軍部隊である。民兵組織は事実上消滅したことで、国内鎮圧も結局、国防が本来の任務の解放軍を頼りにするしかなかったわけである。 

 

天安門事件後、武装警察部隊の整備が本格化されて、以来、国内鎮圧・政権防衛の主力部隊となっている。にもかかわらず、昨年から国有企業・大学などで人民武装部成立の動きは広がっているのである。政権の狙いは一体何であろうか。そこに重大な問題が秘められている。 

 

武装警察の対応能力を超えた事態を想定しているのか 

 

よく考えてみれば。習近平政権が企(タクラ)む台湾併合戦争やそれに伴って起きるかもしれない米中衝突や米中戦争には、国内の民兵組織はほとんど役に立たないのはほぼ自明のことである。つまり習政権による人民武装部・民兵組織再建の動きは、対外戦争に備えたものであるとは思えない。その一方、国内鎮圧の武装警察部隊はすでに存在し機能している状況下では、一体何のために人民武装部の設立・民兵組織の再建を急がなければならないのか。 

 

そこで考えられる可能性の一つ、習政権が人民武装部設立・民兵組織の再建にあたって想定しているのは、国内において、武装警察の対応能力さえ超えたところの全国規模の大動乱の発生ではないのか、である。 

 

中国では今、経済が崩壊して大リストラの時代に入り、一般の労働者、特に若年層の失業率は史上最高水準に達している。数千万人単位の大学生に至っては「卒業すなわち失業」という絶望的な状況下に置かれている。このような情勢下では、何かの突発事件がきっかけとなって全国範囲の大反乱・大暴動が発生して一気に広がるという未曾有の事態が生じてくる可能性はいつでもある。 

 

こうなっていると武装警察だけではもはや危機に対処できなくなるし、一方の解放軍は、台湾侵攻やアメリカや周辺国との軍事的対峙に備えるのに精一杯である。 

 

結局、習近平政権は、いずれかやってくる上述のような危機的な状況に対処するためには、各地方行政区や国有企業・大学に設立されている人民武装部とその指揮下の民兵組織を国内鎮圧の主力として頼りにする以外にない。おそらくそれこそは、習政権は人民武装部設立と民兵再建を急いでいることの本当の狙いであろう。 

 

そして逆に言えば、習政権が全国規模の大暴動・大反乱の発生に備えて人民武装部・民兵の再建を急いだこと自体は、まさに、中国が「大暴動・大反乱」の時代へ突入していくことの前兆である。それだけではない。それと関連するもう一つの気になる動向が習近平政権にあるのである。 

 

それが文化大革命時代の民間治安管理システムの再建である。「新たな文化大革命に突き進む習近平、人民による人民に対する監視・密告・粛清システム『楓橋経験』の再建へ」で詳しく解説する。 


https://gendai.media/articles/-/117631 

 

 

天安門事件と言えば、1989年6月の天安門事件しか知らなかったので、第一次天安門事件があったとは、小生にとっては、驚きであった。 

 

第一次天安門事件とは、Wikipediaによれば、次のようなものであった。 

 

毛沢東の主導した文化大革命に距離を置いていた周恩来首相の死去を悼む民衆の集まりがいつの間にか共産党政権への批判となり、慌てた政府が鎮圧した、という事件である、とWikipediaには書かれている。 

 

先ずはその「文化大革命」から。 

 

 

文化大革命Wikipediaより) 

 

・1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言。 

・「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創成しよう」 

  という文化の改革運動だったが、 

・実際には大躍進政策の失敗で、主席の地位を劉少奇に譲った毛沢東復権 

 運動で、 

紅衛兵と言う学生運動や大衆を扇動し、政敵を攻撃・失脚に追い込む官製 

 暴動で、共産党内部の権力闘争であった。 

1976.9.9に82歳で毛沢東が死亡すると、あとを継いだ鄧小平毛沢東主義 

 を徐々に排除し、「改革開放」へ舵を切り、市場経済体制を取り入れて、 

 中国経済の立て直しを図り、毛主義を排し「個人崇拝禁止」の党規約を取り 

 入れた。 

・しかしこの規約は習近平により、現在は「有名無実」化している。 

文化大革命を主導していたのは、次の4人で、江青張春橋ヨウ文元・ 

 王洪文で、江青毛沢東の4番目の夫人で女優、毛沢東としては不倫婚 

 だった。 

(続く)