邪馬台国とはなんぞや?(71)

だから百済の地には、沢山の前方後円墳があるのである。

 

しかし、新羅にもそれなりの多くの前方後円墳が存在している。新羅も日本の臣民となっていたからには、それもおかしくないことであろう。

 

それにもまして、新羅の王が日本人であったことの方が、その理由なのであろう。

 

そのことは、1145年に完成した高麗の歴史書三国史記」の新羅本記に詳しく記されている。

 

これも別冊宝島22832015.2.13第一刷り発行の「日朝古代史・嘘の起源(監修室谷克実氏)」の20頁以降に記されているので、簡単に紹介しよう。

 

 

1. 新羅・初代・朴赫居世(ばくひょっこせ)-BC57~AD4

   大輔・ホゴンなる人物を馬韓に派遣し、貢物が途絶えたことを問いただす。

   大輔とは最高官職で、ホゴンなる人物は倭人であった。

 

2. 第2代・南解(なれ)-AD4~24

   多婆那国(但馬地方か)から流れ着いた昔脱解(そく・たれ)が賢者であることから、長女を 

   嫁がせた。そして大輔(総理大臣兼軍司令官に相当)に任命する。

 

3. 第3代・儒理(ゆり)-24~57

   昔脱解は極めて徳のある人物であったので、儒理(ゆり)は脱解に王位を譲ろうとするが説得

   される。脱解は大輔として勤める。

 

4. 4代・脱解(たれ)-57~87

   脱解は新羅王として大輔にホゴンを任命する。脱解王と大輔・ホゴンの倭・倭コンビは、倭国

   との関係を修復して国交を回復させる。以後脱解の子孫が王位についている。

 

   金とか昔という姓が倭系であり、以後9世紀まで倭系の王が続く。

 

 

といった状況であったので、日本の臣民となっていた新羅の地に前方後円墳があっても、一向におかしくはないのである。

 

 

また、「日本と言う国号は、古代の新羅が付けたのだ」などという馬鹿なことを言う朝鮮人がいる、というが、これも頓馬な人物の馬鹿な作り話である。

 

これは馬韓国の捏造本の「物語朝鮮の歴史」なるものに、端を発している。これは似非エセ歴史家の崔南善(チェナムソン、1890~1957なるものが書いたものであるが、そこには「日本の国号を授けたのは新羅」なる説が書かれていると言う。

 

はじめはヤマトがそのまま国名となり、久しくそれを使っていたが、新羅で日本と呼んだことがあってから、だんだんこの名前を使うのを好み、ついに国の正式名となった

 

 

しかし朝鮮の正史「三国史記」には次のように書かれている。

 

文武十年(670年)十二月・・・倭国更号日本。自言近日所出 以為名

 

倭国、日本と国号を改める。自ら言う。「日出る所に近し。以って名と為す」と。

 

ここには自ら言う、と書かれているように、日本は自分で自国を日本と言ったのである。

 

これに対して、朝鮮は中国・明にお伺いを立てて、国号を「朝鮮」と決めてもらったのである。

 

李氏朝鮮は、高麗から移行する際に、明の光武帝に「国号は和寧と朝鮮とは、どちらが良いか」とお伺いをたてて、「朝鮮」と決めてもらったのである。

 

この話は、小生のブログの2011.10.06の「日韓併合100年」のNO.166でも紹介しているので、ご承知かも知れない。

 

 

しかしながら雄略天皇の時代、日本の分国であった新羅は長い間貢物を、奉らなかった。そのため天皇新羅征伐を行ったが、新羅王には逃げられてしまった。

 

475雄略天皇20年冬)には、高句麗が大群で百済を攻めて、百済を滅ぼしてしまった。このため雄略天皇は、日本に住んでいた百済の昆支王(こんきおう)の五人の息子の中から二番目の末多王(またおう)を兵士と共に百済に送り届けた。これが東城王(とうせいおう、481~501)である。

 

百済の歴代の王子は日本に住み、日本語を話していた。日本の臣民であった百済では、日本語が常用されており、任那も含めて代々日本語を話していたものと思われる。

 

そして次の王が、筑紫の嶋で462に生まれた武寧王である。そのため嶋君と呼ばれたと日本書紀には書かれているが、1971百済武寧王の墓が発掘され、墓誌銘にその旨書かれていることが判明し、日本書紀の記述の正しいことが判明したのであった。

(続く)