しかし、新羅にもそれなりの多くの前方後円墳が存在している。新羅も日本の臣民となっていたからには、それもおかしくないことであろう。
それにもまして、新羅の王が日本人であったことの方が、その理由なのであろう。
そのことは、1145年に完成した高麗の歴史書「三国史記」の新羅本記に詳しく記されている。
これも別冊宝島2283、2015.2.13第一刷り発行の「日朝古代史・嘘の起源(監修室谷克実氏)」の20頁以降に記されているので、簡単に紹介しよう。
1. 新羅・初代・朴赫居世(ばくひょっこせ)-BC57~AD4
大輔・ホゴンなる人物を馬韓に派遣し、貢物が途絶えたことを問いただす。
大輔とは最高官職で、ホゴンなる人物は倭人であった。
2. 第2代・南解(なれ)-AD4~24
多婆那国(但馬地方か)から流れ着いた昔脱解(そく・たれ)が賢者であることから、長女を
嫁がせた。そして大輔(総理大臣兼軍司令官に相当)に任命する。
3. 第3代・儒理(ゆり)-24~57
昔脱解は極めて徳のある人物であったので、儒理(ゆり)は脱解に王位を譲ろうとするが説得
される。脱解は大輔として勤める。
4. 第4代・脱解(たれ)-57~87
脱解は新羅王として大輔にホゴンを任命する。脱解王と大輔・ホゴンの倭・倭コンビは、倭国
との関係を修復して国交を回復させる。以後脱解の子孫が王位についている。
金とか昔という姓が倭系であり、以後9世紀まで倭系の王が続く。
といった状況であったので、日本の臣民となっていた新羅の地に前方後円墳があっても、一向におかしくはないのである。
また、「日本と言う国号は、古代の新羅が付けたのだ」などという馬鹿なことを言う朝鮮人がいる、というが、これも頓馬な人物の馬鹿な作り話である。
これは馬韓国の捏造本の「物語朝鮮の歴史」なるものに、端を発している。これは似非エセ歴史家の崔南善(チェナムソン、1890~1957)なるものが書いたものであるが、そこには「日本の国号を授けたのは新羅」なる説が書かれていると言う。
「はじめはヤマトがそのまま国名となり、久しくそれを使っていたが、新羅で日本と呼んだことがあってから、だんだんこの名前を使うのを好み、ついに国の正式名となった」
しかし朝鮮の正史「三国史記」には次のように書かれている。
「文武十年(670年)十二月・・・倭国更号日本。自言近日所出 以為名
倭国、日本と国号を改める。自ら言う。「日出る所に近し。以って名と為す」と。」
ここには自ら言う、と書かれているように、日本は自分で自国を日本と言ったのである。
これに対して、朝鮮は中国・明にお伺いを立てて、国号を「朝鮮」と決めてもらったのである。
李氏朝鮮は、高麗から移行する際に、明の光武帝に「国号は和寧と朝鮮とは、どちらが良いか」とお伺いをたてて、「朝鮮」と決めてもらったのである。
この話は、小生のブログの2011.10.06の「日韓併合100年」のNO.166でも紹介しているので、ご承知かも知れない。
しかしながら雄略天皇の時代、日本の分国であった新羅は長い間貢物を、奉らなかった。そのため天皇は新羅征伐を行ったが、新羅王には逃げられてしまった。
475年(雄略天皇20年冬)には、高句麗が大群で百済を攻めて、百済を滅ぼしてしまった。このため雄略天皇は、日本に住んでいた百済の昆支王(こんきおう)の五人の息子の中から二番目の末多王(またおう)を兵士と共に百済に送り届けた。これが東城王(とうせいおう、481~501)である。
百済の歴代の王子は日本に住み、日本語を話していた。日本の臣民であった百済では、日本語が常用されており、任那も含めて代々日本語を話していたものと思われる。
そして次の王が、筑紫の嶋で462年に生まれた武寧王である。そのため嶋君と呼ばれたと日本書紀には書かれているが、1971年百済の武寧王の墓が発掘され、墓誌銘にその旨書かれていることが判明し、日本書紀の記述の正しいことが判明したのであった。
(続く)