ついでに紹介すると、そこには探検家「ペ・エム・ジェロトケヴィチ」が1885/12/6
から1886/2/29にかけて、ソウルから北朝鮮を経てポシェートまで踏破した記録
「朝鮮旅行記」のことが載っている。それによると、「朝鮮はどこまでいっても禿
げ山と赤土ばかりで、草も総て燃料のために刈り取られる」とか「山地が痩せて
いて、昨年も沢山餓死者が出た」「朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴
えている。樹木は皆無で、燃料には藁と草が使われている」と述べているので、
朝鮮では、治山治水の遅れと言うよりも何もやっていないと言う治山治水の放
置や山林荒廃などが進行しており、もともと自然条件も悪く、その上に農地管理
や農業振興などが全く行われておらずに、社会的、経済的混乱が常態化し、民
族意識の高揚、進取の精神を阻害していた、とこの本は述べている。そのため
民族の自主独立精神をも消失させてしまったのであろう、と結論付けている。
ここでポシェートと言うのは、以前('11/7/1,NO.105)北韓作戦で言及した豆満
江(図門江、ニンベン付き門)が日本海に注ぐ口のすぐ北側に位置するロシアの
小さな湾・ポシェト湾であり、現在は原潜の基地があると言われているところで
ある。北朝鮮の国境のすぐ近くにある。1860年の北京条約で沿海州一帯がロシ
アに割譲され、ロシア領となっている。
'10/11/11,NO.20では「甲午農民戦争(東学党の乱)、1894年」のことを述べ
ているが、このような朝鮮の農業の状態であったから、東学党の乱も起きたの
である。「朝鮮旅行記」は、この日清戦争の原因となった甲午農民戦争(東学党
の乱)の約10年前の状況を説明している。韓国が併合される前から、農村の状
態はこんなものであった。
朝鮮人は、朝鮮の旱魃や洪水は日帝36年の土地強奪や森林資源濫伐、略奪
が原因だとわめいているが、それは真っ赤な嘘である。探検家「ペ・エム・ジェロ
トケヴィチ」の「朝鮮旅行記」を読めば、よくわかる。れっきとした証拠文書がある
から、朝鮮人のわめきチラシは、虚無で空虚で、馬鹿丸出しであることがよくわ
かる。
こんな状態の朝鮮農業の中へ、目賀田ははまり込んでいったのである。
朝鮮の土地はもともと土質に劣り、しかも農地と言う農地は、両班がほとんど所
有していた。しかもそれらの土地は、長年にわたり農民達から(両班が)強奪した
もので、しかもなんら農地改良や治山治水といったことは行われていなかった。
そのため農業生産性は極端に劣り、しかもその少ない収穫の半分以上を両班
が強奪していたから、毎年のように飢饉が続いていた。
黄文雄氏の「朝鮮は日本人がつくった」の中で、シャルル・ダレ神父はその「朝
鮮事情」で、両班の土地強奪を次のように述べている。
「両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で
農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしに済ませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守礼(知事)は一人もいない」
しかもそのやり方がまた強引なのである。土地持ちの農民を捕まえてきて、牢屋
にぶち込み食事を与えず、また「うん」と言うまで鞭打つのである。これは以前に
紹介した「ねずきちの ひとりごと http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry
-1196.html」にも写真つきで紹介されているので、今一度参照願いたい。土地
の強奪は朝鮮人のお家芸である、とまで黄文雄氏は言っている。終戦直後の
焼け野原の日本の土地を強奪していった第三国人とは、この朝鮮人のことで
ある。今でも日本領の竹島を掠め取っている。
(続く)