日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(55)

しかも、日本では刃部磨製石斧が250箇所から900点以上も出土している。このような事例は世界広しと言えども、日本にしかないものである、と次の論考でも記されている。

 

まあ今様に言えば、ノーベル賞モノだったのであろう。

 

一寸長いが、その抜粋文を次に掲載しておく。詳しくは本文を参照願う。

 

 

世界最古の磨製石斧と栗原遺跡
-列島最古の旧石器文化を探る⑥-

多摩考古 第47号 20175月発行 pp.1-15 小田静夫

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2 日本の旧石器時代に磨製石斧

()東京都文化課の確認調査

 一九七二(昭和四七)年九月、都建設局公園緑地部都市公園課は、都立城北中央公園の整備事業として、明大、武蔵野博調査個所(一九五一年、P地点と仮称) の旧馬場跡、現グラウンドの改造計画を都文化課に相談した。栗原遺跡は、現在、復元家屋が公園内に残っており、旧石器時代(当時、「無土器時代と呼ばれた) の石器類が出土したP地点の崖は、この家屋の南側の石神井川直上に位置している。

 栗原遺跡は一九五一(昭和二六)年と一九五五(昭和三〇)年の発掘調査で、軟質(ソフト)ロームから細石器、硬質(ハード) ロームから礫群が発見されていた。しかし一九七二(昭和四七)年このP地点はグラウンドとして整備され、約二m以上が掘り下げられていた。そうした状況から、都文化課は遺物包含層の有無確認を主目的とした現地調査を指導した。

 調査は一九七三(昭和四八)年四月一八日・一九日、都立公園の整備に伴う遺跡確認調査として都文化課埋蔵文化財係(小田静夫担当)によって実施された。発掘作業は、明治大学考古学専攻生(斉藤基生、織笠昭、宮下健司、伊藤裕助、松尾吉高、伊藤富冶夫、川道究、福士広志) が調査員として参加した。

(2)立川ロームX層から磨製石斧出土

 確認調査は、まず任意の地点を選定して、グリッドを設定し開始された。まもなくして、各地点の調査員から石器出土の報告があり、しかも包含層は明確な明褐色のやや軟質ローム中であった。そのうち斉藤基生調査員のグリッドから、一点の楕円形で表面がスベスベした大型剥片が発見され写真撮影を行った。早速、公園の水道でこの石器を洗ったところ、刃部を研磨した立派な「局部磨製石斧」であることが判明し、一同驚嘆の歓声をあげたのであった。それもそのはず、当時、無土器文化では長野県茶臼山遺跡、同県杉久保遺跡、それと千葉県三里塚遺跡No55地点の資料などしかなく、いずれも時代的認定(混入か) やローム層準の判定などに議論が存在していた。また有名な群馬県岩宿遺跡栃木県磯山遺跡例は、「磨製か磨耗か」という論争に決着が着いていない現状であったからである(芹沢一九六五)。

 

 早速、P地点の崖面に残されたローム層を調べ、掘り下げられた出土層準との対比を行った。その結果、驚くことに想像していたローム最上部のソフトローム層ではなく、さらに数m深い立川ローム第二黒色帯下の第X層」上部に包含されていたことが判明した。確認調査は事の重大性から一時中断し、都文化課の雪田孝学芸員文化庁小林達雄調査官に連絡し指示を待った。翌日、都建設局公園緑地部公園課と都文化課との現地協議を行うことに決定し、P地点は記録作成を行った後に「現状保存されることになった。 こうして東京・武蔵野台地

関東ローム層中から、原位置でそれも日本最古の確かな年代を示す地層(第X層、約四万~三万二〇〇〇年前)から、立派な磨製石斧が出土し「無土器文化」の所産であることが確かめられた意義は極めて大きいものであった。

()栗原遺跡の磨製石斧

 磨製石斧は、立川ローム第X層の上部(現在の第Xa層、約三万二〇〇〇年前)に包含されていた。石材は、ホルンフェルス製。
 法量は、最大長八三cm、最大幅六四cm、最大厚一.四cm、重さ七六.六g
 素材は、扁平の円礫を縦型に半割したような大形自然面付剥片を利用している。形状は、主要剥離面側の周縁を整形加工して楕円形品に仕上げている。

 研磨は、剥離面側に強く、自然面側には弱く認められる。方向は、刃部からやや斜めに認められる。このことから、縦斧(マサカリ)的着柄と使用法が窺える資料である。


(続く)