纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(38)

上の地図によると、薩摩半島の西の出っ張りに「笠沙崎」と言う地名がある。これが古事記に言う「笠沙の御崎」である。当然韓国Koreaなんぞが近くにあるわけではなく、ここは不毛の「空国」なのである。 

 

古事記によれば、日向の高千穂のくじふる峰に降りて 

からこの「笠沙の御崎」まで来たことになる。かなりの距離である。 

 

 

それにもまして、高天原(関東地方・茨城県)から九州の高千穂の峰までの方が相当遠い距離となる。どのようにして移動してきたのであろうか、と言う疑問が湧いて来るものである。 

 

高天原から一足飛びに九州が舞台となってしまっている。出雲と言い、高千穂と言い、高天原からは相当遠い所となる。 

 

何故このような遠い所に、敢えて、ゆく必要があったのであろうか。 

 

これこそが大陸から侵略されかねないという、危機意識のなせる業なのである。西日本が危ない、と言う国際感覚が強かったということである。 

 

だから、邇邇芸命の天降りの様子は先にも挙げておいたが、古事記には次のように表現されている。 

 

彼ここに天の日子番(ホ)の邇邇芸命、天の石位(イハクラ)を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、陵威(イツノ、勢いよく)道(チ)別(ワ)き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、反り立たして、筑紫の日向の高千穂のくじふる峰に天降りましき。 

 

(そして天の忍穂の耳の命と天久米命の二人が大刀や弓を持って先導した。 

 

・・・  』 

 

古事記天孫降臨 原文対訳 - 古典を読む (jimdofree.com) 

https://classicstudies.jimdofree.com/古事記/上巻-第五部/天孫降臨/) 

 

によれば、現代語訳は次の通り。武田祐吉氏による現代語訳としている。 

 

そこでアマツヒコホノ邇邇芸命に仰せになって、天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて、勢いよく道を押し分け、天からの階段によって、下の世界に浮洲があり、それにお立ちになって、遂に筑紫の東方なる高千穂の尊い峰にお降り申さしめました。 

 

と訳されている。 

 

これによると明かに、天・空から下界に降る様を読んでいる。 

 

しかしながら先にも言及しておいたが、高天原は関東地方で、今の「鹿嶋市」や「香取市」の近辺で、利根川霞ケ浦下流域で鹿島浦に近接している地域が、その中心地であったわけで、海上交通の要衝でもあったようだ。 

 

だから、田中英道著「天孫降臨とはなんであったか」(勉誠出版)では、このことを次のように書かれている。 

 

 

『・・・天の浮橋に、浮きじまり、反り立たして、・・・』の天アマ(メ)・は「」ではなくて「」のアマである、としている。 

 

そうすると、「天の浮橋」は、「海の浮橋」となり、上記の霞ケ浦下流域の状況とうまくマッチすることになる。 

 

その書(P86)には次のように書かれています。 

 

ですから、この部分は「海の浮橋を渡ると、浮島があり、そこにまっすぐに立って行って」とすることが出来ます。そう考えると、いよいよ現実的な実態が見えてきます。 

 

海と言うと、その交通手段は「」と言うことになりますが、船と言うと、鹿島神宮の南、香取神宮の東には、「息栖神社イキス」があります。この神社の祭神は「アマノトリフネ」と言う船の神様なのです、とその書のP86~87には書かれています。 

(続く)