纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(57)

 斐川町は、人口約2万8千人の町で、島根県東部に位置し八岐大蛇(ヤマタノオロチ)神話で名高い斐伊川と朝日に輝く湖面が美しい宍道湖に囲まれた豊かな平野を持つ穀倉地帯である。
 町南部の農道建設予定地から弥生時代銅剣358本が出土したニュースは瞬く間に全国を駆け抜け、沢山の学者や古代史に関心を持つ人たちが毎日毎日列を成して荒神谷を訪れた。
 昭和59年7月12日の午後4時頃銅剣の一部が発見されてから358本を取り上げるのに1ヵ月半もかかった。 

 


 

 

 翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された。 


 一度ならずも二度の大発見で、日本の弥生時代の青銅器文化の考え方を根底から覆すことになった。現在、発掘された遺跡は国の史跡に指定され、発見当時の状況をそのまま再現して、発掘現場を体感してもらえるよう史跡公園として整備されている。
 

 そして、平成10年、出出したこれらの青銅器は一括して国宝に指定された。

 いつ、どこで、だれが、何の為に作り、何故この地に、貴重な青銅器をこれほどまでに大量に埋めたのか?
発見から19年の歳月が流れた今でもそれらたくさんの謎は深いベールに包まれたままである。

 
 また、発見された銅剣358本のうち344本の茎(なかご)=根元の柄を差し込む所には、×印が刻まれていました。この×印は、荒神谷遺跡からわずか3.4kmの距離で、1996年(平成8年)に銅鐸39個が見つかった加茂岩倉遺跡の13個の銅鐸にも刻まれていることが発見されました。
 ×印は一体何を意味しているのでしょうか。
 青銅器に×印が刻まれている例は、全国のどこからも見つかっていないことから、この二つの遺跡は何らかの関係があるはずです。
 

              


 

銅剣の出土状況(南西から)
358本もの大量の銅剣が整然と並べられたいた 

大量の銅剣:長さ50cm前後、重さ500gあまりの銅剣である、すべて中細形銅剣c類にぞくするもので、「出雲型銅剣」とも呼ばれる 

                   


                

 



銅鐸と銅矛の出土状況
翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された 

 

                  

左が、358本の銅剣、右に銅鐸・銅矛が発見された
当時のままに復元され展示されている荒神谷遺跡          

荒神谷遺跡は、島根県簸川郡斐川町神庭に所在し、「出雲国風土記」に記されている
神名火山(かんなびやま)・仏経山(ぶっきょうさん)の東約3km、
高瀬山北麓の低丘陵地帯に散在する小さな谷あいの一つにある。
荒神谷は、遺跡から発見された傍の山に「祟りが怖いと言いつたえのある荒神」が
祭られていることから、古来地元ではこの谷を荒神谷と呼ぶようになったと伝えられている。

(略)   

 

murata35.chicappa.jp/katudohokoku/izumo01/izumo/index.htm 

(続く)