纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(56)

読み解き古事記神話篇三浦祐之朝日新聞出版)のP255によれば、大穴牟遅神は(降伏の印に・・・と理解するが)広矛を建御雷之男神タケミカヅチ)と天鳥船神へ差し出したわけで、それが上記の写真のように16本の広幅銅矛6個の銅鐸が、降伏の印に埋納されたのであろう。 

 

それが現代になって発掘されたという訳である、と小生は理解している。 

 

出雲神話も、実際に起こったことを神話形態で、人々が記憶して続けていたものである、と理解したい。 

 

銅鐸も埋納されていたということは、出雲国家としての神事も止めて「高天原」の管理に入ります、と言うことに他ならないのであろう。 

 

事実、これらの青銅器には、×印が刻まているのである。これこそ、出雲の国としての国家管理をやめて、高天原勢力の軍門に降るということを明確に示すものである。いわゆる「信ずる神も高天原の神」といたします、と言う完全な降伏だったのである。 

 

この他に、全国最多358本の銅剣も埋納されていたことからも、出雲の完全な降伏であった、と言うことは明かなことであったであろう。 

 

加茂岩倉遺跡には、史上最多の39個の銅鐸が埋納されていたことから、ここでは、「出雲の宗教替え」の行事が行われて銅鐸埋葬儀式が行われたのであろう。 

 

そして、神谷遺跡では、銅矛16本と銅鐸6個、更には銅剣358本を埋納し、「高天原に服属する」儀式が行われたものと思われるのである。 

 

これで完全に出雲は高天原に帰属して、天照大神高御産巣神タカミムスヒノカミ達は落ち着いて「葦原の中つ国」の統治を始めることが出来たのであろう。 

 

だから、邇邇芸命を天降らせることが出来たのである。 

 

 

(参考)遺跡別出土品一覧 

 

       銅剣   銅矛   銅鐸 

荒神谷遺跡  358本  16本   6個   S59年07月 と S60年 

加茂岩倉遺跡  -   -    39個   H08年10月 

 

銅剣の本数は、出雲地方の正式な神社の数と同じであり、何らかの関係があるものと思われる。 

 

 

 

 続いて、今回の旅のお目当ての荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡など、現地の発見現場に足を運んで実際に学芸員の方からお話を伺いながら見学出来たことは本当に良かったと思っています。

 荒神谷遺跡は、昭和59年7月、町南部の農道建設予定地から弥生時代銅剣358本が出土したニュースは瞬く間に全国を駆け抜け、沢山の学者や古代史に関心を持つ人たちが毎日毎日列を成して荒神谷を訪れた。翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された。

 加茂岩倉遺跡は、平成8年10月14日に農道整備の工事中に偶然発見された。知らせを受けた加茂町教育委員会島根県教育委員会は、急遽現場に駆けつけ作業の中止と現状を変更することのないよう申し入れ、その後の調査で、史上最多の出土数となる39個の銅鐸が確認された。

なぜ、こんな所に沢山の銅鐸や銅矛、銅剣が埋納されていたのだろうか? 

 

 

 

 「分からない・・・」これは日本青銅器研究の権威、佐原真氏(当時、国立歴史民俗博物館副館長)が初めて神庭荒神谷を訪れた際の唯一のコメントだ。1984・85年、斐川町荒神谷遺跡での銅剣358本、銅矛(どうほこ)16本、銅鐸6個の大量出土は常識をはるかに超える空前の発見であった。
 

 さらに、1996年10月14日、加茂岩倉遺跡から日本最多となる39個の銅鐸も出土し、研究者のみならず多くの国民を驚嘆させた。
 

 なぜ出雲の地から大量に発見されるのか。島根における青銅器調査に対し、全国の研究者、古代ファンから熱い視線が注がれている。
 

  


 弥生時代初め、日本列島に稲作技術とともに鉄青銅の文化が伝わった。当時の人々には未体験であった青銅の神秘的な輝きや音色から、青銅器は神を呼ぶ祭器として弥生社会の祭りの首座に置かれたようだ。

 銅鐸の起源は中国や朝鮮半島で家畜の首に付けたり、呪術者が使用していた小さな鈴だとされている。日本列島では次第に大型化して、豊作を祈る祭りのカネ(銅鐸)になったと考えられる。剣・矛・戈かなどの青銅器ば最初は先端が鋭く刃も付けられていたが、日本列島で本格的に生産が始まると、次第に大型化して刃先も丸くなり、実用的な武器ではなく武器形祭器へと変貌していった。
 

 青銅器は弥生社会においては、鋳造技術の高さ、原料入手の困難さなどきわめて希少価値が高く、重要な役割を果たしていたと考えられる。この貴重な青銅器をこれだけ大量に保有していた出雲の勢力は一体どのようなものであったのか。原料、製作地、枝術者、その背景の勢力など新たな視点で古代史を見直す必要がある。
 

 いずれにしても、出雲は他地域の文化を積極的に取り入れながらも、個性豊かな文化・独自の世界観を創造していたようだ。



             荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置と周辺の地図
 



      


  斐川町神庭(ひかわちょうかんば) 

  昭和62年国史跡に指定 平成10年青銅器が国宝に指定