纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(58)

と言ったところが出雲神話の一部分であるが、その書によれば(P264)、古事記の中ではこの出雲神話が四割以上を占めているという。それだけ出雲と言う国家連合がかなりの勢力を誇っていた、と言うことではないのかな。 

 

先にも指摘しておいたように、この日本列島は、 

 

高天原・日高見国(連合)と 

葦原の中つ国  

 

との二大勢力が存在していたようだ。だから「葦原の中つ国」は、ある意味日高見国と肩を並べるかそれ以上の勢力を誇っていたものと思われる。 

 

その「葦原の中つ国」が、簡単ではないにしても、なぜ高天原勢力に屈してしまったのであろうか、と言う疑問も自ずと生ずるものである。 

 

高天原・日高見国が日本列島の統一に向けて動き出した理由は、一つには、大陸との関係が考えられる、と言われている。大陸での混乱が日本列島に悪影響 

を及ぼすことがないように、統一を急いだというのがその理由である。 

 

それと既にこの時代には鉄器が使われていた筈なのだが、この神話には鉄の話がそれほど出てこない、と小生の浅薄な知識では認識しているが、そこら辺もなんとなく歯がゆい感じがするものである。 

 

出雲には「たたら製鉄」の技術があり、それなりに鉄を確保していたはずなのであるが、高天原勢力に結局は屈してしまったということは、鉄の確保の違いがあったのではないのかな。 

 

全くのあてずっぽうの推測ではあるが、高天原勢力の方が鉄の武器が多かったということではないのかな。「日本の起源は日高見国にあった--縄文・弥生時代の歴史的復元」(田中英道著・勉誠出版)のP132~133には次のように書かれている。 

 

この銅剣の埋蔵は、一方では東国の鉄剣に敗れた証拠といえるかもしれません。鹿島神社近くに厨大遺跡群がありますが、ここは縄文前期後半(紀元前五000年頃)のものです。そこから赤い製鉄炉跡が見出されています。赤い酸化鉄の部分が見出されたのです。松本市にも縄文中期の住所跡に製鉄炉跡か見出され、鉄を溶かしていたのです。諏訪神社にも油鉄鋼がありました。また福島にも固まった鉄分を取り出す炉跡が見出されました。これを見ると縄文時代すでに関東の各地で鉄が使用されていたことがわかります。鉄は決して朝鮮から移入されたものが最初でなく、日本で存在していたのです。鉄によって武器が東国でつくられていたとすると、出雲の銅剣は、関東高天原勢力の鉄剣勢力に、戦わずして譲った、と言えるだろうと思います。 

 

 

だから実際に戦火を交えたかというと、小競り合い程度のものはあったかもしれないが、大々的なドンパチは無かったのであろう。鉄と銅とではそれほどの差が存在するものである。だから、山陰地方を始め、山陽、近畿、中部の一部まで治めていた大国主命は、高天原勢力にその「葦原の中つ国」を譲らざるを得なかったのであろう。 

 

 

それにしても銅剣、銅矛、銅鐸と武器とは言えない金属製品がこれほど大量に見つかったということは、出雲の国は縄文的な祭祀国家の様相を色濃く持っていた国柄であったのではないのかな。 

 

だから官僚的と言うよりも連合組織共同体の様相を呈していた高天原・日高見国との争いには、負けてしまったということではないのかな。 

 

だから祭祀的な銅剣・銅矛・銅鐸などを、あれだけ大量に埋納させられてしまった、と言うことなのであろう。 

 

出雲としても何もなければ、それだけ貴重な宗教的用具をむざむざ土中に埋めてしまうということは、しなかった筈である。 

 

高天原としては、出雲を宗教的なくびきから遠ざけるためにも、それらの銅製品をなくす必要があったのである。だから、大量に埋納させたのであろう。 

(続く)