マダカスガルのノシベは、島の北端より一寸南下した東側にある島である。ノシ
が島、べが大きいと言う意味と言う。さてロシアの第1太平洋艦隊(旅順艦隊、
浦塩艦隊、マカロフ中将司令官→ビトゲフト司令官)は、1904/12/5 に旅順の
203高地を占領されそこに観測所を設置され、日本軍に砲撃破壊されている。
そして浦塩艦隊は、それ以前の1904/8/14の蔚山沖海戦で修理不能なほどに
破壊され、艦隊としては機能しなくなっている。従って第2太平洋艦隊(バル
チック艦隊)は、単独で浦塩まで辿り着かなければならなくなっていた。
バルチック艦隊は、リバウ港を出港直後の1904/10/21深夜、ドッカーバンク
事件を起こしている。ドッカーバンクはイギリスとデンマークの間の浅瀬で、北海
の重要な漁場である。イギリスの漁船が沢山操業していた。神経過敏なバル
チック艦隊は、それらの漁船を日本の水雷艇と勘違いして、発砲した。そのため
一隻の漁船が沈没し、2名が死亡しその他数名が負傷した。そのほかバルチッ
ク艦隊の同士撃ちもあったと言う。このためイギリスでは、市民レベルでも
反露・親日となり、政府レベルでは日英同盟
(1902/1/30~1923/8/17、'10/12/28,NO.49参照)のため、無煙炭の販売拒否や
英国植民地への入港拒否などでバルチック艦隊の航行を妨害し、更には日本
へバルチック艦隊の航行情報を提供した。
1905/4/14、バルチック艦隊はフランス領インドシナのカムラン湾に入港する。
ここで第3太平洋艦隊と5/9に合流している。バルチック艦隊は45隻と言う大部
隊であったが、ここでロジェストヴェンスキーがすでに旧式のため除外した9隻
の軍艦と合流している。この軍艦は旧式ながら、かなり手が加えられており、以
前とはその様相が変わっていたという。ロシアもそれ相応の策を施していたよう
であった。
この段階でバルチック艦隊のウラジオストクへの航路は、三つある。最短距離は
対馬海峡ルートである。一番距離の掛かるルートは宗谷海峡ルートであるが、
当時の燃料は石炭であり、途中石炭補給をしなければならなかったので、この
ルートは除外できる。そして三つ目のルートは津軽海峡ルートであるが、この海
峡には機雷が設置されている。
5/14、カムラン湾出港。行き先、航路はロジェストヴェンスキー中将の胸のうち
にあり、誰にも口外していない。5/19にはバシー海峡を通過している。バシー海
峡はフィリピンの北、台湾との間の海峡である。
そして5/23、10時ごろ宮古島の琉球帆船「宮城丸」が、那覇から宮古島へ雑
貨を運んでいる時にバルチック艦隊を望見する。そして5/25,9:00に宮古島の警
察にバルチック艦隊を見たことを報告する。しかし宮古島には電信設備が無く、
報告を受けた宮古島の警察は若者五人を選抜して、サバニ船(くり船)二艘
を、5/26,7:30に派遣する。(「日露戦争 5」児島襄によると) 実際には帆のある
船だったようだが、120kmを帆走して、午後10時に石垣島東部に着岸する。
そして5/27午前零時に石垣島電信局に到着する。この報告は、結局は日本海
会戦の結末がついた5/28午前10時に連合艦隊が受信した。
この5人はその所在地を冠して「久松の五勇士」と賞賛された。
(続く)