沖縄戦教科書検定問題(2/10)

こいつら馬鹿でないかい。沢山集まったね、などと言う前に事務方から正確な

数字を報告させておくか、「たくさんな数字ですが、いつも水増しがありますか

正確な数字は後から訊いておきますよ」、くらいに言っておくものではないか

い。どいつもこいつも当事者意識に欠けている。

町村も町村だ。文科省が「軍の命令や強制はなかった」と言っているわけだか

ら、訂正できるかどうか、などと言うものではない。もし自信がなかったら「ない

ものをあるなどとする必要は全くありません」と言うか「検定に政治が介入する

ものではありません」くらいに言っておくべきものだ。

然るにひょっとすると、こいつら慶良間列島の集団自決事件のことを知らな

かったのではないか。長い間教科書検定問題で話題になっているものだから、

もし知らなかったとするなら政治家失格だ。

また、大集会そのものにビビッて黒い物も白いと言ってしまうような、弱虫

だったのか。そうだとしたら、ますます政治家失格だ。これでは日本も浮かば

れないぞ。

豆腐の角に頭をぶつけて死んでもらったほうが、日本のためだ。

政治家がそんなていたらくだから、沖縄県警も、主催者側の反発を恐れて、

集会参加者数を公表できないでいた。沖縄県警は、ちなみに4万2千人

見積もっていたと言う。

渡海紀三郎は自分ではどうする事も出来ずに、派閥領袖の山崎拓に相談し結

局は、「真摯に対応したい」と言うことになる。山崎拓は、もともと共産党の衣を

被った自民党員だから、渡海も相談などすれば、当然訂正させられることに

なってしまう。

(4)そして12月18日、

出版社各社から「再訂正」が出揃ったのを受け、教科書図書検定調査審議会の

日本史小委員会が開かれた。席上訂正内容が説明され、今後検討を重ねて、結

論を出すことになる。

ただし、「集団自決」については「直接的な日本軍の命令や強制で行われた

とする根拠は確認できていない」として、強制などの単純な記述は混乱を招く

する解を出している。一般的に記述修正過程での”指針”は口頭でしか伝

られないが、今回は「沖縄戦及び集団自決に関する日本史小委の基本的と

え方」として12月4日に公表された。要旨を下記する。

(2007年12月27日の中日新聞、朝刊より)

基本的とらえ方

沖縄戦

住民を巻き込み軍官民一体となった戦時体制の中で、地上戦が行われた。

いかなる事実がどのようにして起こったかが探求され、その成果が生徒に

伝わる記述にならなければならない。

[集団自決]

太平洋戦争末期の沖縄で住民が戦闘に巻き込まれると言う異常な状況の中

で起こった。その背景には当時の教育・訓練など複雑なものがある。集団自

決が起きた状況を作り出した要因もさまざまなものがあり、軍による手榴弾

の配布や壕からの追い出しなど軍の関与はその主要なものと捉えられる。

一方、夫々の集団自決が、直接的な軍の命令で行われたことを示す根拠は確

認できていない。他方、住民の側から見れば、当時のさまざまな背景・要因で

自決に追い込まれたとも考えられる。複合的な背景・要因で集団自決に追い

込まれた、と捉える視点に基づくことが理解を深めることに資すると考える。

と言うものであるが、ここに言う複合的な背景・要因については単に「地元の防

衛隊員に手榴弾を配布していた」「当時の教育・訓練」などと言う簡単なことに

しているが、そんなものではない。もっともっと直接的なものの存在に言及され

ていない。たとえば、

米軍の執拗な絨毯爆撃により、住民は逃げ場を失っていたということ。

[徳平秀雄郵便局長の証言沖縄県史第10巻」より

(正論'07/12月号P114

《恩納川原に着くと、人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が打ち

込まれました。上空には飛行機…。砲撃はいよいよ、そこに当たっていまし

た。・・・・・

そこでどうするか、村の有力者達が協議していました。村長、前村長、真喜屋

先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。後方に下がろうにも、

そこはもう海です。自決する他ないのです。・・・防衛隊員は、持って来た

榴弾を、配り始めていました。

・・・そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう

心理状態に持っていったとは考えられませんでした》

当時の教育・訓練と手榴弾を持っていた、と言うことだけでは自決は起こりえな

い。上記のような、本当に切羽詰った状況住民たちは置かれていたという

ことが抜けている。

そして、集団自決を決定したのは、村の有力者達の協議ある。村長たちの

協議内容によりその引き金が引かれたのであった。

即ち、米軍による執拗な絨毯爆撃により切羽詰った状況に住民たちは置かれ

ていた、と言うことと、村の有力者達の協議があり、それによりその引き金が

かれたという、直接的な要因にこそ、もっともっと言及すべきである。

当時はまだ生き残っていた村の有力者達が、自分たちの(住民を死に追いやっ

たと言う)責任を逃れるために、赤松神話を喧伝したのではないか、とも感じら

れて仕方がない。

(続く)