日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(13)

続報 日本最古の栽培稲の痕跡 縄文前期から米作りか

投稿者 倉田佳典 日時 1999 4 22 15:43:13:

 

http://www1.meshnet.or.jp/sanyo-md/news/localnews.html#1

99年4月22日 山陽新聞

 

最古の稲細胞化石発見 岡山・朝寝鼻貝塚

6000
年前の縄文前期初め 稲作起源論争に波紋


 岡山理科大発掘チーム(代表・小林博昭同大教授)は(19994)二十一日、岡山市津島東の朝寝鼻(あさねばな)貝塚から採取していた縄文時代前期初め約六千年前)の地層から、稲の栽培を示す細胞化石・プラントオパールを検出したと発表した。稲作を行っていたとみられる資料としては、岡山県美甘村・姫笹原遺跡など縄文時代中期の例を千五百年近くさかのぼり、日本最古の発見。稲作起源論争に大きな波紋を広げそうだ。


 同貝塚の調査は、同大の通学路建設に伴い、九、十年度に約百六十平方メートルを発掘した。地表から約三メートルの地層で採取した土壌を顕微鏡で調べたところ、栽培種の稲に固有の「イチョウの葉」形のプラントオパール(長さ約〇・〇四ミリ)約五十個が検出された。


 同チームによると、同じ層から縄文時代前期の型式とされる羽島下層式土器が出土プラントオパールの形が栽培種の特徴を示す同層のすぐ上が何も遺物が含まれない間層で覆われ、後世のものがまじり込んだ可能性がない―ことから、縄文時代前期に稲の栽培が行われていたことを実証する資料と断定した。


 同チームの調べでは、これまで稲作の起源を示す日本で最も古い資料は、いずれも縄文時代中期(約四千五百年前)とみられる姫笹原遺跡、倉敷市・福田貝塚など県内四カ所鹿児島大学構内遺跡など県外二カ所。今回が日本最古の検出例となる。


 また土壌分析の過程で、同じ地層からこれまでの検出例を約二千年さかのぼる小麦のプラントオパール一個と、ハトムギとみられるプラントオパール百個以上が検出された。


 今回の発見について、調査、鑑定に当たった高橋護ノートルダム清心女子大教授は「縄文時代前期にさまざまな穀物が複合的に栽培されていたことを示し、農業が生活の軸になっていたと考えられる」と分析。小林教授は「これまでの縄文文化のイメージを覆す発見。縄文時代前期の多様な生活様式などを解明していく上で貴重な資料になる」と話している。


 プラントオパール(植物ケイ酸体) イネ科植物の葉などに含まれるガラス質細胞の微化石。イネ、キビ、アワなどの種類ごとに固有の形、大きさがある。安定した性質で、土壌中はもちろん、高温で焼かれた土器の胎土にも残ることから、イネ科植物の存否を判別するのに大きな威力を発揮する。


 朝寝鼻貝塚 古くから知られながら、宅地化で実態不明となり″幻の貝塚″と呼ばれていた。岡山理科大が平成九、十年にかけて発掘調査し、縄文前期から後期の遺物を確認。飼育された可能性があるニホンザルの骨が全国で初めて確認されるなど、注目を集めている。

今後の研究に問題投げ掛ける


 春成秀爾・国立歴史民俗博物館考古研究部長の話 日本列島で飛び抜けて古い稲関係の資料であり、今後の研究に非常に大きな問題を投げ掛ける発見だ。食料採集の延長、というこれまでの縄文稲作の位置付けを見直す必要があるかもしれない。今後、より広範囲に、各時代・時期にわたり調査を進め、列島の稲作開始時期が確かめられることを期待したい。

 

http://www.asyura2.com/sora/bd19992/msg/152.html

 

 

 

イネのプラントオパールの発見事例 (6000年前のもの縄文時代前期初め

 

 記事の発表  遺跡名      場所            発見量

(1) 1999.4.21  朝寝鼻貝塚  岡山市津島東3丁目   約50個、小麦1個、ハトムギ百個

(2) 2005.2.18  彦崎貝塚    岡山市南区灘崎町彦崎  2千から3千個/1g、小麦も。

 

 

朝寝鼻貝塚で発見されたイネのプラントオパールは僅か50個程度と少なく、いくら発見層の上の層には何も遺物が含まれていなかったために後から混じり込んだものではないとしても、少量であったために内心は6000年前に稲作が行われていたとの確信はそれほど強固ではなかったのではないのかな。

 

だが、当時としては画期的な発見であり、縄文時代前期に稲作が行われていた資料として、断定されたものであった。同じ地層からは小麦やハト麦のプラントオパールも発見されたために、縄文時代前期には、穀物が複合的に栽培されていたと考えられた。

 

これに対して、20052に発表された同時期の彦崎貝塚のイネのプラントオパールの量は、土1g当たり2,000から3,000と大量のものであった。同時に小麦のプラントオパールも見つかり、そのため、「縄文前期の本格的農耕生活が始めて裏付けられる資料」として、今迄の稲作の起源の定説を打ち砕くものとなり、ここに約6000年前の縄文時代前期初め日本で稲作が行われていたことが実証・確定されることになったのである。

 

その後次々と籾の圧痕のついた土器やプラントオパールが発見されたことから、縄文時代の初めから継続的に、縄文時代を通じて稲作が行われていたことが証明されることとなった。

 

 

岡山県における稲作の遺跡例

 

(1) 岡山県真庭郡美甘村媛笹原遺跡縄文中期中葉(5000年前)・プラントオパール

(2) 倉敷市福田貝塚縄文後期前葉(4000年前)の籾痕土器

(3) 岡山市津島岡大遺跡縄文後期中葉(4000年前)・プラントオパール、朝寝鼻の近く

 

(4) 総社市南溝手遺跡縄文後期中葉(4000年前)・プラントオパール

(5) 総社市南溝手遺跡縄文後期後葉(3500年前)の籾痕土器

 

 

 

このように岡山の四つの遺跡からは、稲のプラントオパールや籾痕土器が発見されている。

 

6000年前の朝寝鼻貝塚彦崎貝塚で見られる稲作とみられるイネのプラントオパールや、上記の様に縄文時代全体を通して、イネのプラントオパールや籾の圧痕が見つかっていることから、

縄文時代を通して日本列島では、稲作が行われていたことには間違いないであろう。事実、プラントオパールはあちこちで発見されている。

 

もちろんこの時代のイネは、水稲ではなくて陸稲・おかぼであったわけであるが、それでは水稲はどのようにして日本列島にやって来たのであろうか。

 

今まで見てきたように、水田稲作は、渡来人が持ってきたと言うものではない。

 

朝鮮半島から渡ってきたものでもない。何となれば、朝鮮半島では陸稲が登場するのが、畑作作物に混じってBC1000年頃のことである、と言われている。そしてBC500年頃に水田が登場していると言う。日本の陸稲6000年前には植えられていたもので、水田稲作は、およそ3,000年前の菜畑遺跡では行われているので、BC1000年には水田が登場していたのである。

 

    朝鮮            日本            中国・河姆渡遺跡

陸稲 BC10003000年前)  BC40006000年前)  

水田 BC 500         BC10003000年前)  BC50007000年前)

 

朝鮮での陸稲BC1000年頃と言う事は、およそ3,000年前のことであるが、日本では先に説明しているように朝寝鼻貝塚や彦崎貝塚6,000年前にはイネは確実に栽培されていたことが分かっているので、日本の方が韓国より3000年も早くからコメが栽培されていたことになるのである。

 

従って朝鮮のコメ(陸稲)は、日本の縄文人が半島に持ち込んだものと考えても、間違いがないことでしょう。