日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(45)

(1) バイカル湖周辺のホモサピエンスは、ヒマラヤの北側を迂回してきた者である。(横断説

(2) ヒマラヤの南回りで東南アジアに来た者達がバイカル湖まで北上したものではない。

(3) バイカル湖周辺への定着は、28000年のことである。→46500~44500年前

(4) 北極圏のヤナRHS遺跡は、31000年前の遺跡であるが、寒冷化に伴い2.8万年前頃に

  は人々はバイカル湖周辺まで南下してきた。→ヤナRHS33000年前

(5) 16000年前頃の温暖期には、温暖となりシベリアに進出、そしてアメリカに渡った。
                             →15000年前頃

(6) この南回りのホモ・サピエンスは、オーストラロ・メラネシアンの祖先である。

(7) 東アジア人は、オーストラロ・メラネシアンとは全く異なっている人種である。

(8) バイカル湖ホモ・サピエンスたちが、東アジアへ移動してきた(1万年前頃)。
                             →4~38000年前

 

話の筋としては、おおよそ 海部陽介の主張と一致しているが、如何せん時期が全く異なっている。上記の表での赤字で示した年代が、海部陽介の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)に記述されているものである。

 

当ブログの2020.09.10NO.33では、ホモ・サピエンスの拡散の4つのブロックの地図を示したが、北ブロックから南に行くとすぐに東アジアのブロックにぶち当たる。そこでは南北ブロックの合流点としていた。

 

感覚的には南ルートのホモ・サピエンスたちが北上したと言うよりも、北ブロックのホモ・サピエンスたちが、何らかの理由で南下したものと思われる。即ち、モンゴルにもバイカル湖周辺で見た石刃技法による石器や骨角器や各種の装飾品(?)が発掘される後期旧石器時代の遺跡が存在しているようだ。但しはっきりしていない様だが、4万1000年前、場合によっては4万5000年前頃まで遡るかもしれない、と言われている。

 

そして中国に入り、寧夏回族自治区のオルドス市のすぐ南側に位置する「水洞溝遺跡」がある。

ここからは石刃技法による石器やダチョウの卵殻製のビーズなどが見つかっている。人骨は見つかってはいないが、後期旧石器時代の遺跡で3万8000年前頃の可能性がある(P104)と言われている。

 

南ルートでは石刃技法が発達していないので、アジアの北と南ではかなり異質の文化圏があったことになる、とP104には記されている。

 

この北東アジアでのホモ・サピエンスの人骨の発見は、ほとんどないようだ。だが中国北部の田園洞(周口店第27点)で見つかった人骨はホモ・サピエンスのもので、この田園洞人は3万9000年前のものであった。と言うことは、中国北部から朝鮮半島に石刃文化が広がった年代と重なるもので、この頃には確実にホモ・サピエンスがこの地区にまで進出していたと言うことである。そしてその先には、日本列島が存在している。そのころの日本列島には豊富な動植物が存在していたようで、日本の旧石器時代の遺跡は1万ヵ所以上存在しているのである。

 

更には、周口店遺跡群の山頂洞からも、1930年代に人骨が発掘されている。この山頂洞は北京原人が発掘された洞窟のすぐ上にある別の洞窟であり、3万4000~1万2000年前と諸説あると言われているが、これらの頭骨は現代東北アジア人の平坦な顔と言う特徴はないので、この山頂洞人は現代の東北アジア集団の形態特徴が進化する前の段階の人々だったのであろう、とP106~107では述べている。

 

現代東北アジア人の平坦な顔と言うものは、一種の寒冷地適応のカタチだと言われているので、この北ルートのホモ・サピエンスたちは、ネアンデルタール人のようには寒冷地適応前の人々だったようだ。

 

 

 

8 黄土文明のあけぽの

http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/W/akebono/ake8.htm

   1 オルドス旧人 top

 中華民国が発足した翌年、すなわち一九一三年、ひとりのフランス人宣教師が、中国にわたってきた。
 その名を、エミール・リサンという。リサンは、ただの宣教師ではなかった。
 すぐれた自然科学者であり、とくに地質や動植物について、ふかい造詣をもっていた。
 そこで、天津(テンシン)において博物院を経営するかたわら、一九一四年からは中国の北部一帯をあるきまわり、地質をしらべたり、古い動植物の化石をあつめたり、さかんな活動をつづけたのであった。



 その足跡は、黄河の上流地方にまでおよんだ。
 黄河の流れをさかのぽってゆくと、函谷関(かんこくかん)から潼関(どうかん)をこえたところで、北へ折れる。
 つまり東流していた黄河が、そこからさきは南流している。この流れの東方が山西省であり、西方が陜西(せんせい)省である。
 そうして黄河は、陜西省と、その北につながるオルドスの砂漠地帯を大きくの字型につつんで、流れている。
 万里の長城は、このの字型の黄河の中央部を横ぎって、きずかれた。
 長城の線から北方がオルドス地方であり、そこはモンゴル高原の一部でもあった。
 リサンは、このオルドスの南辺にまで足をのばしたのである。

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リサンは長城の線から北方のオルドス地方にまで足を延ばした


(続く)