纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(11)

ここに卑弥呼がいた 

 

しかし平成21年、ついに大型建物跡が見つかった。箸墓古墳から約700メートル北で、3世紀前半の大型建物跡など3棟が並んだ状態で確認された。卑弥呼は2世紀末に女王となり248年ごろ死去したとされ、時期もぴったり。大型建物跡は南北19メートル、東西12メートルで、吉野ケ里遺跡の大型建物跡より一回り大きいことも、纒向説を勢いづけた。 

 

卑弥呼は、この宮殿にいたといっていい」。石野さんはこのとき初めて、纒向遺跡邪馬台国を結び付けることに確信をもったという。 

 

さらに研究者を驚かせたのが、大型建物跡などが東西方向に一直線に並んでいたことだった。これまで方位をそろえた大型建物群は、飛鳥時代(7世紀)以前にはほとんど確認されていなかった。 

 



纒向遺跡から出土した桃の種。手前は実がついた状態のもの=平成22年、奈良県桜井市 


 

方位を正確に知るには、太陽や星の位置を測定する天文の知識が欠かせない。天文学は中国からもたらされ、纒向の人々は中国から最先端の知識や技術を取り入れて宮殿を築いたことが明らかになった。 


 

巾着の発見「中に金印は…」 

 

邪馬台国論争の決定的な物証は、卑弥呼が中国皇帝から授かったという金印の発見だ。魏志倭人伝によると、卑弥呼239年に中国に使者を送り、親魏倭王」の称号と王の象徴である金印を授かったという。 

 

この金印をめぐって、石野さんが一度だけ色めきだったことがある。平成3年、ひもで口を縛った3~4センチ大の絹の袋「巾着(きんちゃく)」が見つかった。 

 

「角張ったもんは入ってないか」 

 

思わず調査担当者に尋ねた。「金印の入った袋ではないかと」。しかし手に取ると柔らかく、X線撮影をしても金属製品は確認されなかった。中身は今も謎のままだ。 

 

シルクロードの香り 

 

同遺跡ではその後、約2700個もの桃の種、現在では香辛料に使われるバジル、染料のベニバナの花粉などが出土した。 

 

バジルは薬などに使われたとみられ、花粉の形状から東南アジア産と推定。ベニバナはエジプトではミイラを巻いた布、中国では衣服の染料として使われたという。 

 

桃は、古代中国で神聖な果物として珍重され、大量の桃の種の出土から、宮殿一帯に桃の木が植えられた可能性が浮上。神や仙人が暮らす神聖な地「桃源郷」を思わせる宮殿だったことが、発掘で浮かび上がった。 

 

 


 

寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長(70)は「バジルやベニバナなど、もとは西域にあったものがシルクロードを通じて中国大陸に伝わり、海を越えて纒向にもたらされた。日本列島にとどまらず、世界的なスケールをもつ遺跡だ」と強調。「今から1800年近く前、すでに卑弥呼の政権は纒向の地を都とし積極的に中国王と外交し、文物を取り入れた」と話した。(小畑三秋) 

 

纒向遺跡 日本書紀などで神の宿る山とされる三輪山(みわやま)の麓に、東西2キロ、南北1・5キロの範囲に広がる。3世紀に突然出現し、4世紀初めまで大規模な都市だったとされる。これまで200回を超える発掘が行われたが、小規模な調査が多く、まだ全体の数%にとどまる。 

 

https://www.sankei.com/article/20211027-NY43JQ35SNMVPBOUUBNL57Q2FQ/ 

 

 

次にこの論考の冒頭の文言を次に掲げる。 

 

邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(1)(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地(2)。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼(3)宮殿か」と話題を集め、畿内(3)が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。 

 

上記の下線部分間違い部分である。間違いは間違いでも「大いなる間違い」なのである。 

 

(続く)