だが、纏向地区で2009年(H21年)に大型建物跡が見つかり、一躍「卑弥呼の宮殿か」と邪馬台国畿内説が盛り上がってしまったのである。
次にお示しする論考も、間違いの一つであることをご認識いただき、ご一読願う。
https://www.sankei.com/article/20211027-NY43JQ35SNMVPBOUUBNL57Q2FQ/
2021/10/27 08:00小畑 三秋無料会員記事
THE古墳
邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。
東京のような大都市だった
46年当初から調査を担当したのが、同県立橿原考古学研究所元副所長の石野博信さん(87)。現場で着目したのが、大量に見つかったつぼや甕(かめ)など煮炊きや貯蔵用の日常の土器だった。一見すると同じような形だが、装飾などが奈良県内のものと少しずつ違っていた。
卑弥呼の宮殿かと話題を集めた纒向遺跡の大型建物跡。黄色いポールは柱の跡=平成21年11月、奈良県桜井市
通常の集落遺跡では地元の土器が大半を占めるが、纒向遺跡では、東海や山陰、瀬戸内、九州などの特徴をもつ土器が15%ほどに上ることが分かった。いずれも3世紀を中心とした土器で、邪馬台国の時代と重なった。
「土器だけが勝手に纒向に来るはずがない」と石野さん。さまざまな地域の人々が日常生活で使う土器を携えてやってきて、何世代にもわたってここで暮らした証しだという。
「まるで何かの力に引き寄せられるように、たくさんの人が纒向の地に集まってきた。現在の東京のような都市ではないか」と推測。土器の丹念な分析から、「倭国の首都」ともいわれる纒向遺跡の特異性をあぶり出した。
同遺跡ではその後も、祭祀(さいし)用の木製の仮面など全国初といわれる発掘が相次いだが、石野さんは邪馬台国と結びつけるのには慎重だった。「講演会で話をすると、『纒向遺跡は邪馬台国なんですか』と聞かれることがよくあった。でも、纒向とまでは言えなかった」という。「やっぱり魏志倭人伝に書かれたような宮殿跡が見つからないと」
魏志倭人伝には、卑弥呼の宮殿について、「宮室は、楼閣や城柵を厳かに設け」と詳細に記されていたが、纒向遺跡ではいっさい見つかっていなかったからだ。
「卑弥呼の宮殿か」と話題を集めた大型建物跡などの復元模型。東西に方位を合わせて建てられていた(桜井市教委提供)
邪馬台国九州説の研究者はこの点を真っ先に指摘し、畿内説を否定。「纒向遺跡が邪馬台国といえない以上、箸墓古墳の被葬者は卑弥呼であるはずがない」
九州説の有力な遺跡としては、平成元年に大型建物や楼閣、大規模な環濠や柵の跡などが発掘された佐賀県吉野ケ里町の吉野ケ里遺跡が筆頭格だ。
「纒向=邪馬台国」説にとって、大型建物跡の未発見が最大の弱点だった。
(続く)