纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(29)

そのため高天原葦原の中つ国も、災いごとがあちこちで起こってきたのである。慌てた八百万の神々は、天の安の河原でどうしたものかと喧々諤々議論を始めたのである。 

 

その結果、天の宇受売(ウズメ)の命の神憑(がか)りした踊りと、天の金山の真金を鍛えて作った鏡天の手力男(タジカラオオ)の命の強い力などで、天照大神を天の岩戸から引き出すことでできた。

 

これにより高天原葦原の中つ国も、再び明るい光に包まれることになるのである。 

 

ここでは高天原葦原の中つ国と二つの国を並べているが、小生はこの二つの国は、結局は同一の国のことを言っているのではないかと思っている。 

 

高天原も葦原の中つ国も同じく農業社会の様相を呈しているからである。 

 

よって、ここで大事なことは、「天の岩戸」の物語ではない。 

大事なのは、高天原には、現実の人間社会と全く同じ生活が営まれていることである。 

 

即ち、稲作、機織り、馬の飼育など、さらには川も流れており、一般の日常生活が高天原にはあった、と言うことである。 

 

田中英道著の「天孫降臨とはなんであったか」(勉誠出版)には、次のように書かれてている(P45~46)。 

 

日本書紀には「(天照大神は)粟・稗・麦・豆を畑の種とし、を水田の種とした。それで天の邑君(村長)を定められた。その稲種を天狭田と長田に植えた。その秋の稲穂は、八握りもある程しなって、大そう気持ちがよかった。また大神は口の中に、蚕の繭を含んで糸を抽くことが出来た。これからはじめて養蚕ができるようになった。」(前掲『全現代語訳日本書紀』)といった、さらに具体的な記述もあります。 

 

と書かれているように、高天原は天空の神域と言うよりも、様相は普通の農耕社会の様相を呈しているとみて、間違いがなさそうである。 

これが有名な「天の岩戸(屋)」の物語であるが、高天原葦原の中つ国も真暗闇となり災いごとが広がってしまう。そのため八百万の神々は天の安の河原に集って、喧々諤々どうしたものかと議論を重ねるのである。 

 

その結果、天の宇受売の命の神懸かりと天の金山の鉄を鍛えて造らせたのおかげで、天照大神を再び天の岩屋から引き出すことが出来たのである。 

 

古事記では高天原から天降って、葦原の中つ国へ行き着くようなイメージであるので、高天原は天上世界のことのように思ってしまうが、実際の高天原では水田耕作が行われ、蚕も飼われていたのである。 

(続く)