ALPS処理水放出と習近平の凋落(25)

処理水への「猛反発」は中国の首を絞めつつある 裏目に出た「孫子の兵法」 

米倉昭仁  2023/09/07/ 06:30 

 

香港の日本総領事館前で、日本政府に対し、処理水の海洋放出撤回を求めて抗議する親中派政党のメンバー=8月23日、香港     香港親中派抗議 

 

 東京電力福島第一原発の処理水の海洋放出に対する中国の反発が止まらない。日本産の水産物の輸入を全面停止しただけでなく、中国国内での加工や調理、販売も禁じる徹底ぶりだ。そんな中国の激しい反発は、米中対立をめぐる戦いの一環である「認知戦(情報戦)」だと、中国の外交・安全保障政策を分析する防衛省防衛研究所・地域研究部中国研究室の飯田将史(まさふみ)室長は指摘する。 

 

*   *   * 

 

 飯田さんは、処理水の放出に対する批判や対抗措置は、中国が切ってきた「対日カード」の一つであり、少なくとも半年以上前から準備されたものだったと話す。 

 

 中国メディアのチェックを続けている飯田さんによると、1年ほど前から中国共産党機関紙の人民日報を中心に、「日本国内でも処理水放出に対して反対がある」といった記事が継続的に掲載されていた。飯田さんはこの動きを、処理水問題を「対日カード」として使うための環境づくりと見ていたのだという。 

 

 この「対日カード」の目的は何か。 

 

日米同盟にくさびを打ち込む、というのが一番大きな目的でしょう」 

 

  と、飯田さんは言い切る。 

 

 中国にとって主要な「敵」は、中国に対して非常に厳しい姿勢をとるバイデン政権の米国。同盟国や同志国との連携強化によって「中国包囲網」を築いてきたが、中国から見て、その先陣を切ってサポートしてきたのが日本だ。 

 

「中国では日本の対中政策に対する不満が溜まっていて、その姿勢を変えたい。それに処理水放出問題が利用できると考えたのでしょう」 

  

 

 中国は今、いわゆる「認知戦(情報戦)」を展開しているという。 

 

 認知戦は、個人の思考や感情、記憶などの「認知領域」を戦場の一つととらえ、フェイクニュースといった偽情報などによって世論に働きかけ、国民や国際社会の不信の感情を増大させ、政治体制を弱体化させることを目的とする。 

 

 いわば「戦わずして勝つ」という「孫子の兵法」である。

 

 

防衛省防衛研究所・地域研究部中国研究室の飯田将史室長(本人提供) 

 

■認知戦が目指すもの 

 

 中国が「認知戦」を仕掛ける、その狙いはなにか。飯田さんはその一つが、「日本国内の分断」だと見る。 

 

 処理水を海洋放出する岸田文雄政権の政策に対しては、一部の政党や政治家、国民には強硬な反対意見がある。そして処理水の海洋放出を受けて、中国政府は日本産の水産物の全面的な禁輸措置を取り、中国政府の情報を信じた中国の市民は東京電力福島県内の公共機関、一般の店舗などに「怒り」の電話をかけ始めた。今のところ中国政府に、そのような国内の動きを積極的に止めようという気配は見られない。 

 

「中国は日本政府に対する反対意見をサポートすることで、日本国内の意見の違いを拡大させようとしている。政府与党に対する批判の一つのアイテムである処理水放出問題を燃え上がらせることで、与野党対立をあおろうとしているわけです」 

  

 

 「分断」の試みは、海外でも展開されている。 

 

 

 戦法としての「認知戦」は、近年でも実例がある。2014年、ロシアによるウクライナ領クリミアの併合だ。ロシアは、クリミア自治共和国で多数派を占めるロシア系住民がウクライナ人によって迫害されている、といったフェイクニュースを流布し、その後の住民投票でロシアへの編入が決定された。 

 

「中国は認知戦の重要性を改めて認識し、それを実行してきたのでしょう。今回の件では、核燃料デブリに触れた『核汚染水』が直接海に放出されている、といったフェイクニュースが中国から流れています。その背後に中国国家があるのかはわかりません。ただ当局は、既存メディアを使って国内、そして国際的な世論に影響を与える伝統的なやり方をずっと行ってきました」 

 

■中国政府の困惑 

 

 事態は、中国の思惑どおりに進んでいるのだろうか。 

「いいえ、当初中国が想定していたほどの効果を上げていないと思われます。おそらく、認知戦としては大きな失敗でしょう」と飯田さんは話す。 

 

 日本国内で処理水放出に反対する意見が広がっているようには見えず、 

 

「国民の多くが『中国の主張に合理性はない』と感じているのではないでしょうか。むしろ今回の中国の行動は、日本人の嫌中感情を高める結果に行き着くでしょう」 

 

 と飯田さんは話す。国際的にも中国の主張がインパクトを与えたのは、韓国の野党勢力くらいではないかという。 

 

文在寅政権時代であれば、中国の目的が達せられた可能性が高いと思いますが、韓国に尹政権が誕生し、中国が想定していた以上に日韓関係の強化に政策のかじが切られた。なので、処理水放出批判によって日韓を離間させる効果ほとんどないと思われます。これは中国にとって誤算だったでしょう」 

  

 中央政府が流した情報は、中国国内にはある程度浸透したと言えそうだ。しかし、国際的に見れば、中国が発信した情報に対して疑いを持つ意識が広がり、改めて中国という国の特殊性が広く認識される形になったと見られる。 

 

「つまり、科学的根拠のない処理水放出批判は、悪影響のほうが大きかっわけです」 

 

 そして飯田さんは、「おそらく」と念を押して続けた。 

 

「今、中国政府はその状況に気づき、どうしたものかと考えている」 

 

■二階氏訪中を阻む嫌中感情 

 

 では日本は、中国にどう対応すべきなのか? 

 

「まず、対話を通じて中国の対応を緩和させる。それが無理であれば、国際ルールに基づいた対応をとる。長期的な国益を考えれば、それがベストなやり方だと思います」 

 

 報道によると、岸田首相は中国に独自のパイプを持つ自民党二階俊博元幹事長に対して中国訪問を要請した。 

 

「専門家同士の話し合いや二階氏の訪中を通じて、振り上げた拳(こぶし)をゆっくり下げるチャンスを与える。そのような外交努力を尽くしても中国が非合理な対応を改めなければ、WTO世界貿易機関)のルールに基づいた対応をとる。そうすれば、中国が国際経済秩序に明らかに反する行動をとったということが各国に理解されます」 

  

 ただ、課題もある。 

 

 日本国内の嫌中感情の高まりによって、二階氏が訪問するような対応は「中国に対して弱腰だ」と受け取られ、内閣支持率の低下などに結びつきかねないからだ。 

 

「中国の行動は、日本の世論を嫌中に向けてしまいました。それが日本の対中政策の手足を縛ることになる。そこに中国は気づくべきだ、いや、すでに気づいていると思います。 

 

 究極的には中国指導部が処理水放出批判は逆効果だと理解して、静かに批判をフェードアウトさせる可能性はあるでしょう」 

 

 ■問われる習近平政権の判断 

 

 長年成長を続けてきた中国の経済は現在、大きな曲がり角にある。全土で開発が進められてきた不動産の価格が下落し、その影響は金融セクターを蝕もうとしている。 

 

「これだけ悪化した中国経済を立て直すためには、安定した国際環境が必要だ、という認識が中国指導部のなかで主流となっていくのか否か。今回の対日批判のゆくえは、この地域の『中国の核心的利益』をめぐる今後の中国の安全保障政策の方向性を判断するうえで注目すべき非常に大きなイシューだと思います」 

  

 中国にとってマイナス面が大きい、処理水放出に対する批判。静かに拳を下ろすのか、それとも、「やはり中国は異質な国だ」と国際社会に認識される道を選ぶのか。習近平政権の判断が注目される。 

 

AERA dot.編集部・米倉昭仁) 

 

https://dot.asahi.com/articles/-/200688?page=1 

(続く)