その例が、山口県の響灘に面した砂浜から、300体余りの人骨が発見された土井ヶ浜遺跡にみられるのである。
豊中歴史同好会
文献史学と考古学のコラボレーション
2011.9.XX H23 http://toyoreki.way-nifty.com/blog/
「弥生文化のはじまり・土井ヶ浜遺跡と響灘周辺」展
平成23年度秋期特別展
「弥生文化のはじまり-土井ヶ浜遺跡と響灘周辺-」 9月23日~11月23日
を見てきました。
大阪府立弥生文化博物館館長 金関 恕。彼と響灘との出会いは、父、丈夫氏が団長となる土井ヶ浜遺跡発掘調査に参加したことに端を発する。その出会いは、その後長く続く弥生文化探求のはじまりとなった。金関丈夫氏のことを台北時代の友人、英語教師のジョージ・H・カーン氏は「日本のダビンチ」と称していたという。
金関丈夫氏(1897-1983) 図録集序文より 金関丈夫photo_2
上図のNO.1が土井ヶ浜遺跡である。
(あと略)
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この土井ヶ浜遺跡は、弥生時代前期から中期にかけての遺跡のようだ。即ち大雑把に言って、約2,300年前頃のものである。とすると、水田稲作が始まって、700年は経っているのである。どんぐりを集めて食べていた時代から、コメを中心に食べる時代へと変われば、縄文人の体格も相当変わっていた筈である。事実土井ヶ浜人は、身長も高く、顔かたちも扁平で細長く、それまでの縄文人骨と悉く違っていたのである。
そのためその書はP90~では、次のように書かれている。
九州大学の人類学者の金関丈夫(かなせきたけお)氏は、「土井ヶ浜の人々は、今から2000年余り前の弥生時代、新たに日本列島にやって来た渡来人に違いない」と考えたのである。しかも、中国の山東省から出土した同時代の人骨と似ていたことから、「決着した」と結論付けたのである。
しかし土井ヶ浜からは、大陸系の遺物は何一つとして出土していなかったのである。その代り、北部九州の弥生土器が出土しているのである。
このことをその書はP90~で、次のように述べている。
「その五年後、最新の研究結果を記した『よみがえる日本の古代』(金関恕(ひろし)監修小学館2007)に於いて、藤田憲司氏は金関恕氏の父君・金関丈夫氏の渡来説を軽々と否定していた。
『土井ヶ浜遺跡からは北部九州で作られた弥生土器が出土しています。種子島以南の海でしか採れない貝で作った腕輪や指輪や、硬玉性の勾玉、ガラス小玉などを身につけて埋葬された人がいます。これから、土井ヶ浜の弥生人は北部九州から来たと考えられます』(62)
大陸からやって来たのなら、その時代の山東省の土器が出土して然るべきなのに、その種の土器は出土しなかった。その代り、北部九州の弥生土器が出土したのだから、「土井ヶ浜の人々は九州からやって来た」となって当然である。」
しかしながら、2001年度のNHKスペシャルの大型企画である『日本人 はるかな旅』(日本人の起源を探究し、現代の日本人の成り立ちを追う)では、「縄文時代が終わる頃、中国大陸や朝鮮半島から縄文人とは姿形の違う人々がかつてない規模で日本列島に渡来したことが分かってきた。この渡来系の人々と縄文系の人々の融合によって、私たちにつながる“日本人”が生まれる」(第5集)と放送していたのである。(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20011209)
ちなみに書籍化も行われ、第5巻は2002.1.31に発売されている。
日本人はるかな旅 第5巻
約2500年前、大陸から海を越えてやってきた渡来人たち。その人口増加率は縄文人のおよそ4倍。先住民である縄文人は、彼らとの対立・融合を繰り返し、先進文化を取り込みながら生きのびてゆく。やがて興るゆるやかな共同体のもとに「渡来系:縄文系=7:3」という「日本人」が誕生するまでを描くシリーズ完結篇。
- 発売日 2002年01月31日
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000806272002.html
「かつてない規模で日本列島に渡来したことが分かってきた」などと書かれているが、その分かってきた理由は書かれていない。渡来人の遺跡とか遺物は何も発見されていないのであるが、何故か「分かってきた」などと大法螺を吹いているが、虚偽の発言をして知らぬ存ぜぬである。NHKも、全く以って無責任である。
(続く)