先の2万年前よりも古い遺跡の列挙図から、種子島の遺跡の年代が3万5000年前と飛びぬけてと言っても良いほど古いことがわかる。
このことから、種子島へは九州からホモ・サピエンスが渡ってきたものと思われる。
もう一つ、沖縄島の人骨化石・山下町第一洞穴遺跡は3万6500年前?とかなり古いものである。?がついてはいるが、対馬海峡をホモ・サピエンス達が渡った時期が3万8000年前の頃であったので、ほぼそれと同時期に、ホモ・サピエンスたちは台湾からこの南西諸島(琉球列島)へ渡っていたのではないのかな、と言う推定が成り立つものと思われる。
しかも宮古島から沖縄島までの慶良間海峡の距離は、およそ220kmほどもある(P169)。相当の距離である。
対馬海峡の朝鮮半島・対馬・九州間の対馬の両側にある当時の40kmの海峡の距離とは桁違いに長い。ここを当時のホモ・サピエンスたちは、相当の覚悟で、しかもそれなりの人数で渡航したものと思われる。
だから、ひょっとしたら寒冷期には、この琉球弧は陸橋であったのではないか、と言った説もあった様だ。
しかし大隅諸島の海深は100m前後なので寒冷期には九州と一体となっていたが、トカラ列島や琉球諸島は海深が200~500mと深いために寒冷期でも陸続きになることはなかった。
そのため奄美群島や琉球諸島には、ヤンバルクイナとかイリオモテヤマネコ、アマミノクロウサギなどの固有種が存在しており、ずっと孤立した島嶼だった。
(イリオモテヤマネコはベンガルネコの亜種ではあるが、西表島で独自進化している。)
と言うことは、大隅諸島は別にしても、この南西諸島は陸続きなどになったことは一度もないのである。
だからホモ・サピエンスたちは歩いてこの琉球の島々にやって来たのではなくて、船に乗って渡ってきたことになる。
彼らは優秀な航海者だったのである。
漂流や少人数の移住などではない。先に紹介した人骨化石の遺跡の年代で分かるように、彼らは移住してから、一万年の単位でその島々で定住生活を送っていたのである。男女を含む相当の人数での移住であった筈である。
そして沖縄島の港川フィッシャー(裂け目)遺跡から見つかった2万年前の人骨(成人男性一体、成人女性三体)から推定すると、彼らの身長は男性155cm、女性145~150cm程度でかなり小柄であった(P158~159)。
またそれは、現在のオーストラリア・アボリジニと似ていると言う。このアボリジニはホモ・サピエンスの南ルートの移動者の子孫たちと考えられるので('20.09.17のNO.38参照のこと)、港川フィッシャーのホモ・サピエンスたちは、4万8000年前頃に南ルートを移動してきた集団の末裔たちであったのであろう。
石垣島の人骨化石・白保竿根田原遺跡(2万4000年前、墓地であったらしい)から採取できたミトコンドリアDNAのタイプも、中国南部か東南アジアに由来するものと言うので、これらのホモサピエンス達は、総じて南ルートをたどった集団の子孫であるとしてもおかしくはない。
南ルートをたどったホモ・サピエンスたちは、それほど精巧な石器は使用していなかったことを以前述べている(2020.09.17のNO.38参照のこと)。
この琉球諸島に渡ってきたホモ・サピエンスたちも、石器はそれほど使っていなかったようだ。
南西諸島は繰り返しになるが、次のようになっている。
大隅諸島 台形様石器、刃部磨製石斧、炉跡、焼け石、落し穴などがあり、古本州と同じ
トラ化列島 明確なタイプの石器の出土はない。
奄美群島 ?
沖縄諸島 石器の出土はない
沖縄島など サキタリ洞では、石器でなく貝器が出土している。日本初の発見である。
ケマラ列島
旧石器時代の貝器の出土は、北海道~九州では出土していないので、沖縄のものが初の発見である、と書かれている(P162)。
だから沖縄地方の旧石器文化は本州との関係はほとんどなく、台湾経由で南方から伝わったものに違いない。
そしてこの旧石器時代の沖縄文化は、沖縄止まりで古本州島へは伝わっていないので、日本人の祖先に繋がるものとはなっていない、と推定される。反対に縄文時代以降、本州方面から沖縄地方へ移住が行われているようだ。
(続く)