5万年近く前に、ホモサピエンスがユーラシア大陸から日本列島に渡ってきたというのであれば、さもありなんとは思えるのであるが、渡来人が水田稲作を持って朝鮮半島から日本へやった来たことを言うのであれば、それはないことである。
話は、これと全く逆であり、日本人が朝鮮半島に渡って縄文文化を移植していったものであった。だから朝鮮半島では、日本の縄文土器や弥生土器が出土し、20基近くの前方後円墳まで存在しているのである。古代朝鮮では、統治者は日本人かそれに近い人物であったのである。
例として挙げてある言葉は、日本語が朝鮮語に取り入れられたものである。だからに日本語の発音となっているのである。このようには考えなかったのであろうか。
「無数に存在しているではないか。」の文言については、言葉の事を言っているのか。これでは何を意味するのか、わからないのではないのかな。朝鮮語・ハングルと日本語が似ているから、「朝鮮から日本に多数の渡来人・朝鮮人が流れ込んできた」と言っているのか。
これこそ朝鮮人の得意とする捏造である。
反対に、日本の縄文人は長江(揚子江)の下流域の河姆渡地区にまで進出していた、ということが分かっているのである。
小生のブログの「邪馬台国とはなんぞや?(23)」(2018.09.12)では、次のように記載している事を思い起こしてほしい。
『・・・・・・・・
長浜氏はこのことを、この習俗と無縁だった大和朝廷の影響力が、畿内全域に拡大していったことを暗示している、と書いている(先の書70頁、以後長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)を先の書と呼ぶことにする。)。
日本の入墨の習俗はどこからもたらされたものかは、必ずしも明らかではないが、黥面文身は海に入って魚などを取るために、サメなどの攻撃を避けるためのものであったもので、魏志倭人伝にも次のように書かれている。
「 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう、はまぐり)を捕う。文身し亦(ま)た以て大魚・水禽(すいじゅう)を厭(はら)う。後稍(や)や以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右に、あるいは大にあるいは小に、尊卑(そんぴ)差あり。」
「諸国の文身各々異なる」と書かれているように、各地の倭人には黥面文身の習慣があり、魏国ではその情報が共有されていたようだ。
紀元前一世紀(BC91年頃)に成立したと言われている史記に、当時の江南地方の非漢人には入墨の習慣があったと言う記述があると、先の書には書かれている。
更に次のようにも記載されている(先の書、67~68頁)。
『学習院大学の諏訪春雄教授は、揚子江下流域の江南地方の馬橋文化(4千年前~2千7百年前)の時代、ここから「大量の縄文土器が出土している」と次のように書き記していた。
「直接手に取ってこの土器を見せてもらったが、私の目では、日本の縄文土器と区別がつかない程良く似ている。日本の縄文土器は、馬橋文化の出土品より古く遡るが、日本の縄文時代と江南文化との交流は興味深い研究課題である」(161)(『日本人はるかな旅4』NHK出版)
縄文時代の人たちはこの地にも進出し、入墨の風習を取り入れた可能性もある。・・・』
そして先にも記述しておいたが、各地で黥面絵画の書かれた土偶が出土するようになった訳であるが、二~四世紀になると黥面絵画が発掘される地域は限られており、その間近畿地方からは一つも黥面絵画が出土していないと、先の書には書かれている(70頁)。
・・・・・・・・・』
また2020年8月13日のNO.14では、水田稲作に関して、次のように記している。
「当時の倭人は河姆渡の水田稲作を知っていたのではないのかな。縄文時代晩期にも、河姆渡には倭人はいたかも知れない、と言う事は考えられないか。」
やはり河姆渡には、日本の縄文人がある程度(人数と期間)住んでいた、と言うことである。水田稲作は、縄文人が河姆渡から持ち帰ったものである可能性が、すこぶる高くなったと言うことである。
可能性がすこぶる高くなった、ではなくて、河姆渡から持ち帰ったと断定しても良いのである。
「ともあれ縄文、弥生文化という可視的な範囲で
われわれ日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは
否定すべくもない。」
と言っているように、縄文から弥生にかけての渡来のことを想定したものであるからして、こんなことは全く有り得ないことである。
朝鮮半島から流れ込んできたのではなくて、反対に、日本列島から朝鮮半島に人や文化が流れ込んでいた、と言うのが歴史的事実なのである。
だから、金達寿氏などの朝鮮人の得意とする捏造である、といったのである。
2020.08.12のNO.13では、日本と朝鮮の稲作の開始時期の表を掲載しているが、陸稲も水稲も日本の方が相当早かったことが分かっているし、2020.08.10のNO.11では、「紀元前1万年から前5000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない」と記述されているように、日本の縄文時代の草創期から早期に当たる時代には、朝鮮半島は無人の荒野であった訳だ。
2020.08.12のNO.13から引用、
『
朝鮮 日本 中国・河姆渡遺跡
陸稲 BC1000(3000年前) BC4000(6000年前)
水田 BC 500 BC1000(3000年前) BC5000(7000年前)
朝鮮での陸稲はBC1000年頃と言う事は、およそ3,000年前のことであるが、日本では先に説明しているように朝寝鼻貝塚や彦崎貝塚で、6,000年前にはイネは確実に栽培されていたことが分かっているので、日本の方が韓国より3000年も早くからコメが栽培されていたことになるのである。
従って朝鮮のコメ(陸稲)は、日本の縄文人が半島に持ち込んだものと考えても、間違いがないことでしょう。
』
だからこんな朝鮮から「日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできた」などと言うことは、全く有り得ないのである。だから福田定一こと司馬遼太郎は、考え方が偏向している、といったのである。
ましてや「日本語」が朝鮮のハングルから分かれて成立したなどということは、全くの虚偽・捏造である。これこそ朝鮮人の得意とする偽造なのである。
(続く)