2018-01-01から1年間の記事一覧

邪馬台国とはなんぞや?(28)

親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。) 「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明 2015-12-02 http://oyakochoco.jp/blog-entry-1169.html (略) 戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。そして、現代のメディアもまた、嘘の情…

邪馬台国とはなんぞや?(27)

神武天皇が大阪湾に到達したときは、丁度満ち潮時で、大阪湾からその湖水状のみずうみへは海水が流れ込んでおり、その早い潮流に乗って上町台地の反対側にたどり着いた、と言った状況が書かれているのである。その上町台地には、現在は、東側には大阪城、西…

邪馬台国とはなんぞや?(26)

神武天皇聖跡難波之碕顕彰碑http://otube.osakazine.net/e384484.html 神武天皇聖跡難波之碕 地点地域凡そ東區の上町台地の北端より北區の天満附近に至る地域 御事蹟難波之碕は日本書紀に據れば神武天皇御東征の際到り給ひたる所なりその砌(みぎり)奔潮甚…

石破茂、国を亡ぼす(2)

今、オーストラリアでは、「膨大なチャイナマネーと在外中国系移民をフルに活用して、ありとあらゆる浸透工作を行っていることが発覚して大問題になっている。」と警鐘を鳴らしているのは、先にも紹介した月刊WiLL10月号の「国を亡ぼす危険人物」(山岡鉄…

究極の悪、石破茂(1)

石破茂の悪さ加減は、小生のブログ「加計問題を紐解いてみれば!(48・総選挙)」(2017.10.08~) にしっかり書いてあるから、それを読んで頂きたいのであるが、特に2017.10.12のNO.5以降を参照願いたい。 現在は国民民主党代表の玉木雄一郎とともに、当時、…

邪馬台国とはなんぞや?(25)

12. 神武東征(東遷) は事実なのか、それはいつか。 大阪天満宮は、JR東西線の「大阪天満宮駅」3番出口を出て、50~60mのところにある。と言われても大阪の地理に詳しくないと、その位置関係はぴんと来ない。 大阪城の北西、大川を超えた向こう側の位…

邪馬台国とはなんぞや?(24)

神武東征(古事記) 投稿:2013年03月13日 更新:2013年03月13日 https://nihonsinwa.com/column/novel/12.html の中に、古事記のこの話がうまくまとめられているので、それを次に紹介しよう。 イスケヨリヒメと7人の少女 原文 ここに七媛女(ナナヲトメ)…

邪馬台国とはなんぞや?(23)

だから倭国、邪馬台国が、そのまま大和・日本になったのではないのである。 長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)では、もう一つその理由を述べている。 それは、魏志倭人伝の「男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す…

邪馬台国とはなんぞや?(22)

そして次に、倭国伝を示す。 『旧唐書』くとうじょ倭国伝・日本伝 倭国倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、…

邪馬台国とはなんぞや?(21)

11.邪馬壱(台)国は大和に併合されていた。 しかし倭国、邪馬台国が、そのまま大和・日本になったのではない。 なぜなら邪馬台国が東遷したと言う記録がないからである。 東遷したのは、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)である。…

邪馬台国とはなんぞや?(20)

243年12月 倭王は使大夫伊声耆(イセイギ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人を遣わしているが、 247年には 倭王・難升米に、詔書・黄幢を拝仮した結果、卑弥呼が死んでいる。 そのため、男王・難升米を立てたが、内戦状態となり、難升米は失脚する。 そして、 247年…

邪馬台国とはなんぞや?(19)

更に同書は続く。 「すると、倭国と韓国は、海峡を挟んで、緊密な交流があった様だが、卑弥呼と辰王の関係は、どうだったのか。卑弥呼の死の際は、殉葬と言う弥生時代には、一例もない扶余系、北方系の葬儀だったようだが。また馬韓と同じ木棺墓(有棺無槨)…

邪馬台国とはなんぞや?(18)

10.卑弥呼以て死す。 247年に、魏からの 詔書、黄幢が難升米に拝仮された直後に、女王卑弥呼は死亡している。 魏(の新帝の補佐役の司馬懿)としては、卑弥呼を親魏倭王にしたものの難升米の実力を評価して、難升米を信頼できる東夷の王と考えたようだ。…

邪馬台国とはなんぞや?(17)

人物 行為 行為 行為 対象 (1) 一大率-特置 -検察 -諸国(国中)(2) 男弟 -佐 -治国 -国(倭国) この(1)と(2)は、同じことを表現しているのである。即ち同一人物なのである。 即ち、卑弥呼が霊的権力を行使して宗教的に倭国(邪馬台国)を導き…

邪馬台国とはなんぞや?(16)

塚田敬章氏の「後漢書倭伝」から引用する。 「後漢書倭伝」 (宋)范曄著(424頃) 塚田敬章 1、後漢書倭伝(原文、和訳と解説)2、後漢書倭伝の構成要素3、後漢書倭伝の魏志修正箇所1、原文、和訳と解説倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國 自武帝滅…

邪馬台国とはなんぞや?(15)

9.一大率を置き諸国を検察せしむ。 さてここで邪馬台国関係の位置関係をおさらいしておこう。 まあ異論は多々あると思われるが、邪馬台国とは北九州から朝鮮半島にまたがったあたりに存在していたとして、先ず間違いがなかろう。とりあえずはこんな感じで…

邪馬台国とはなんぞや?(14)

208Pb/206Pbを横軸の左、207Pb/206Pbを横軸の右側に、207Pb/204Pbを縦軸の上に、206Pb/204Pbを縦軸の下にプロットする四軸のレーダーチャートで示すことにより、菱形の鉛同体比のチャートが出来上がる。 このレーダーチャートは、産出地ごとに異なった菱形を…

邪馬台国とはなんぞや?(13)

8.銅鏡百枚と三角縁神獣鏡 魏志倭人伝には、後半の終わりから1/4程戻ったところに「今、・・・銅鏡百枚・・・賜う。皆装封して難升米・牛利に付さん。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を…

邪馬台国とはなんぞや?(12)

8.女王卑弥呼の墓 同書の223頁からは卑弥呼の墓のことに言及しているので、それを簡単に紹介しよう。 「卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。」と径百余歩と相当大きい。 径百余歩とは、約145mだと言う。かなり…

邪馬台国とはなんぞや?(11)

次に(2) の「周施五千余里ばかり。」に移ろう。 「万二千余里」から 帯方郡から狗邪韓國に到ること七千余里を、単に差し引いたものではないと、先に述べた。 「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に到る。」とあるように、狗邪韓国と伊都国にそれぞれ到が使…

邪馬台国とはなんぞや?(10)

7.不弥国の謎、筆法の確認 同書202頁より、不弥国の謎、として「六つの筆法」が隠されている、と解説している。 それを次に羅列してみる。 (1) 先の分析でもわかるように、不弥国の「百里」は宙に浮いている。これを含めると「郡より女王國に至ること萬二…

邪馬台国とはなんぞや?(9)

6.「東南陸行五百里伊都國に到る」と「 東南奴國に至ること百里」の違い この第6章の表題で分かるように、伊都国までと伊都国以降の表現が少し異なっている。 この方角、距離、国名と言う書き順が、伊都国を境に、方角、国名、距離という書き順に変わって…

邪馬台国とはなんぞや?(8)

5. 南のかた邪馬壱國(邪馬台國?)に至る。・・・七万余戸ばかり有り。 さて次に倭国の戸数に焦点を当ててみよう。 1.狗邪韓国 記載なし 2. 対海国 1000余戸 3. 一大国 3000家 4. 末盧国 4000余戸 5. 伊都国 1000余戸 6. 奴国 20000余戸 7. 不弥国 1000余…

邪馬台国とはなんぞや?(7)

4.今、使訳通ずる所三十国。 この魏志倭人伝の冒頭部分には、「今、使訳通ずる所三十国。」とある。 この意味は「通訳を伴った使者」を送ってくる国が30か国と言う意味のようであるが、この30か国を全て引き当てることが出来るであろうか、検証してみよう…

邪馬台国とはなんぞや?(6)

1. 帯方郡 →狗邪韓国 7000里 2. 狗邪韓国 →対海国 1000里 2' 対海国の二辺 800里 3. 対海国 → 一大国 1000里 3' 一大国の二辺 600里 4. 一大国 →末盧国 1000里 5. 末盧国 →伊都国 500里 6. 伊都国 →奴国 100里 合計 12000里 このことを、同書(135頁)は次の…

邪馬台国とはなんぞや?(5)

また万二千余里 12000里も、かなりの長距離となってしまう。当時の一里は434mだと言うので、帯方郡から邪馬台国までの距離は、12000里× 0.434km =5208km となりとてつもない距離となってしまう。 世界地図で朝鮮の帯方郡(ソウル)から奴国(福岡市南部)ま…

邪馬台国とはなんぞや?(4)

これを見ると、この倭人の条は、おおよそ三つの部分に分かれている、ようにみえる。 はじめの部分には、帯方郡から倭国に至る行程・地理に関する記述。 真ん中の部分には、倭国の歴史や産物、習慣、社会情勢の記述。 終わりの部分には、倭国と魏王朝との政治…

邪馬台国とはなんぞや?(3)

男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。古より以来、その使、中國に詣(いた)るに、皆自ら大夫と称す。夏后小康(かこうしょうこう)の子、会稽(かいけい)に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍(こうりゅう)の害を避く。 今、倭の水人、…

邪馬台国とはなんぞや?(2)

2.魏志倭人伝 お分かりのことと思うが、「魏志倭人伝」と言う解説(伝)本は独立した一冊の本ではない。 魏呉蜀の三国の一つ・蜀の政府の歴史編纂官であった陳寿が、蜀の滅亡(263年)後、魏を継ぐ晋(しん、265年~)の重臣に取り立てられて、晋の著作郎(…

邪馬台国とはなんぞや?(1)

1.古代に関する素朴な疑問 古代史には、それなりに数々の疑問点が存在しているが、小生にも常々疑問に思っていること、と言うよりも、何故か頭に引っかかっていることが2~3存在している。 一つ目の疑問は奴(な)国のその後の存在である。 AD57年に後漢の…