2011-01-01から1年間の記事一覧

日韓併合100年(186)

今一度言っておきたい。日本が1905/11/17に第2次日韓協約を結び韓国を保護国とし統監を設置し、さらに1910年8月22日に韓国を併合した結果韓国の人口は、倍増しているのである。1906年の人口980万人は1940年には2,295万人へと、2.34倍も増加しているのである…

日韓併合100年(185)

朝鮮での家族制度と言うものは父系(男系)の血統を重視する宗族(姓)と言う血縁集団であった。そのため女性は子供(特に男子)を生むための奴隷と言っても過言ではない状態だったので、家族とか家庭とかと言う概念はないに等しい状態であった。そのため家…

日韓併合100年(184)

『よくぞ言ってくれた(http://www.tamanegiya.com/nonbee15.5.html)5月31日土曜日雨 ×××http://www.sankei.co.jp/news/030601/0601sei002.htm 自民党の麻生太郎政調会長は今日の東大・五月祭での講演で、支那や朝鮮から批判される歴史認識問題について「…

日韓併合100年(183)

「創氏改名とは何か」(http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai) によれば、次のような説明が載っていた。 「 朝鮮人の姓は、周知のように結婚しようが何しようが変わることがない、というのが古来の慣習である。それは朝鮮の「姓」が父系の血縁…

日韓併合100年(182)

朝鮮では、朝鮮の近代化のために学校建設に邁進した初代統監の伊藤博文、初代朝鮮総督として寺内正毅はハングルを広め、目賀田種太郎は朝鮮の財政と貨幣の整理や近代的土地調査を実施し、農業をはじめ朝鮮近代化の基礎を作り、第7代朝鮮総督となった宇垣一…

日韓併合100年(181)

ここら辺の話しは、NORTH KOREA TODAY 「帝国の遺産」~日本のゼネコンと北朝鮮をむすぶものhttp://www.pyongyangology.com/index.php?Itemid=2&id=354&option=com_content&task=viewを参照願う。 赴戦江発電所(1929年,S4完工)の工事が軌道に乗ると、野口…

日韓併合100年(180)

黄文雄氏によると、朝鮮総督府は、営林署を設立して、森林保護令、幼齢林育成、造林補助、病害虫駆除、森林組合や林業試験場の整備、地方官庁職員の増員などを次々と実施していった。そして1924(T13)年には、国有林区の調査事業が完了している。そしてその国…

日韓併合100年(179)

一寸長くなるが、朝鮮に渡った日本農民の苦労を語っているものを、「韓国は日本人がつくった」の中から、次に引用したい。 「朝鮮には数千年の歴史があり、土地には固定した地主がすでに存在していたため、新田開発はかなり困難であった。それもあって、日本…

日韓併合100年(178)

何はともあれ、上表でもわかるように、朝鮮の人口は1906年980万人→1940年2,295万人と34年間で2.34倍と、倍増どころか、2倍半近くも増えているのである。人口が増えるということは、朝鮮が日本のために飢餓状態にあったなどと言うことが、如何にひどい捏造で…

日韓併合100年(177)

黄文雄氏の「朝鮮は日本人がつくった」によれば、「宇垣総督のこの農村漁村運動は、総督を始め各地方官署、学校、金融組合、企業諸団体などの全統治機構を総動員した一大運動であった。それは、苦境にある個々の農家を対象とした指導、啓発運動であり、農民…

日韓併合100年(176)

ついでに次のURLも面白く、ためになります。http://www.youtube.com/watch?v=pq4ZOhiCqOwhttp://omoixtukiritekitou.blog79.fc2.com/blog-entry-1198.html 昔から朝鮮では、李承番などと言う超極悪な人非人が排出しているので、こういう頓馬な朝鮮人が出てく…

日韓併合100年(175)

台湾は、中国と同じ漢民族の国であるが、中国人よりもずっとずっと心が広く、快活な民族である。1895年末から、台湾は日本の統治下におかれたが、日本は中国人がやったような収奪型の統治ではなく育成型の統治を行い台湾の近代化を図った。台湾人も勤勉によ…

日韓併合100年(174)

上記に引用されている慶南とは慶尚南道のことであろう、朝鮮半島の地図を見ると対馬海峡側に釜山があるが、そのすぐ北西側20kmのところに金海(きむへ)がある。多分この地区のことであろう。このインタビュー記事には「未申告地が発生しないよう綿密な…

日韓併合100年(173)

さて読者諸氏は、この土地調査が果たして公明正大なものだったのか、と幾分疑問を持っておられるかもしれない。事実、頓馬な朝鮮人は、これまた超頓馬な朝鮮の為政者の作った次のような法螺話を、信じているかもしれない。 黄文雄氏の「韓国は日本がつくった…

日韓併合100年(172)

李朝末期ではこのように社会的、経済的混乱が常態化していたため、民族意識の高揚、進取の精神を阻害し、民族の自主独立精神は完全に消失してしまっていた。自暴自棄になった農民達はあちこちで暴動を起こしていたのだ。農民自身の積極性の無さは、大問題で…

日韓併合100年(171)

近代国家となるには、税金の徴収が円滑に行われていなければならない。そしてその基礎となるものは、土地制度が成立していなければならない。李朝末期のこの体たらくでは、とてもじゃないが朝鮮は近代国家への脱皮は不可能であった。 黄文雄氏の「朝鮮は日本…

日韓併合100年(170)

ついでに紹介すると、そこには探検家「ペ・エム・ジェロトケヴィチ」が1885/12/6から1886/2/29にかけて、ソウルから北朝鮮を経てポシェートまで踏破した記録「朝鮮旅行記」のことが載っている。それによると、「朝鮮はどこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、…

日韓併合100年(169)

だから、日本の韓国併合は日本帝国主義の侵略政策の産物であったと糾弾するが、これは真っ赤な虚偽・捏造であり、如何に朝鮮人の「歴史を無視した身勝手な自己中心的な捏造」が、ひどいものであるかを示しているのである。朝鮮は日本人がつくったのである。こ…

日韓併合100年(168)

「歴史再検証日韓併合-韓民族を救った「日帝36年」の真実-」(祥伝社黄金文庫)によると、朝鮮の国家歳入は1907年度で748万円であったと言う。そして実際に必要な歳出は3,000万円以上だったと言う。 このころの台湾の歳入は2,542万円だったと言う(「かつ…

日韓併合100年(167)

1910/6/3、日本では「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、1910/7/8には第三代統監の寺内正毅の設置した併合準備委員会の処理方針も閣議決定される。そして韓国首相の李完用に対して、1910/8/6、併合を提案する。韓国政府としても学相(文部大臣…

日韓併合100年(166)

李氏朝鮮は、高麗軍の武将・李成桂が明と図って高麗王を倒して自ら高麗王と なり、1392年に建国した国である。明の協力があったため、当初は明からは朝 鮮王の代理としか認められていなかったが、1401年にようやく朝鮮国王として 冊封を受けた国であった。 …

日韓併合100年(165)

こんな状況の李氏朝鮮に、目賀田種太郎は財政顧問として赴任したのである。目賀田の苦労が目に浮かぶと言うものであるが、彼は次々と改革を実施して言った。次に重要な財政経済に関する治績を説明しよう。 先ず第1に「皇室関係と一般行政関係」との金の流れ…

日韓併合100年(164)

さて話を 「4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮、http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/heigouji-chousen.html#1」 に戻そう。外国人が見ても、当時の李氏朝鮮はひどい国であった。伊藤博文や目賀田種太郎が如何に苦労し、朝鮮の建…

日韓併合100年(163)

「4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮」の内容の説明の前に、もう一つ紹介しておきたい。 それはNHKなどが盛んに放送した韓流ドラマの、あまりにも史実と違いすぎる、という事である。まあドラマだから当然創作は付き物だ、と言ってしまえばそれまでだが、…

日韓併合100年(162)

これが当時の朝鮮の真の状況である。だから3回も日韓協約を改定して、朝鮮の内政まで改革して行かなければならなかったのである。この李氏朝鮮の状況は、この内容から推察するに、今の北朝鮮の状況とそっくりではないか。こんな国を、誰が好き好んで改革し…

日韓併合100年(161)

目賀田種太郎(めがたたねたろう)は嘉永六年(1853年)駿河藩士の家に生まれている。そして17才(1870年、M3 ~1974年)で米国ハーバード法律学校へ国費留学している。そしてさらに1875年~1879年には(Wikipediaによれば)小村寿太郎ら米国留学生9名の監督…

日韓併合100年(160)

第3次日韓協約(1907.7.24調印) 日本国政府及び韓国政府は速やかに韓国の富強を図り、韓国民の幸福を増進せむとするの目的を以って左の条款を約定せり。 第1条 韓国政府は施政改善に関し統監の指導をうくること 第2条 韓国政府の法令の制定及び重要なる…

日韓併合100年(159)

この3人の密使は高宗の委任状を持ってはいなかった、と言われている。Wikipediaの「ハーグ密使事件」の中の「委任状の偽造疑惑」項目に”オランダ国立文書保管所の担当者によると「3人がハーグで皇帝の委任状を提示したと言う記録はまったく存在していない…

日韓併合100年(158)

それによると、 この協約の締結交渉に際して、1905/11/15に高宗は、特派大使伊藤博文に「形式的な外交権だけは韓国に残したい」と提案するも、断固拒否される。すると高宗は、11/17、大臣達と協議し3点の修正案を提案し、「交渉妥協」を指示する。伊藤は韓…

日韓併合100年(157)

事実Wikipediaによれば、韓国皇帝の高宗は1905年3月にはニコライ皇帝へ、そして7月にはロシア、フランスへ、10月にはアメリカ、イギリスへも密使を送っている。このため日本は、韓国が「外交案件」について日本政府と協議する意志がないと考えて、韓国の外交…